三段目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/16 15:47 UTC 版)
三段目(さんだんめ)は、大相撲の番付上の階級で、6つある番付上の階級(幕内・十両・幕下・三段目・序二段・序ノ口)の内、上から4番目の階級となる。
呼称・由来
呼称の由来は、番付表の上から3つ目の段にその位の力士の四股名が書かれることに由来している。
特徴
三段目力士ともなれば、いわゆる「お相撲さん」らしいしっかりした体格となり入門当初と比べても見違えるほどであるが[注釈 1]、三段目から上を目指すには体格や素質だけでなく、優れた運動能力や技量がさらに要求されるため、部屋での稽古も激しく、より実戦的なものとなっていく。その意味でも、三段目で優れた成績を挙げ続けられるかを、将来関取に昇進できる可能性があるかの見極めに用いる部屋が多い[注釈 2]。「三段目に昇進することが目標」という言葉は期待薄な(ことを自覚している)新弟子の例えとして使われ、後に20代錣山となる寺尾常史も入門当初は三段目昇進が目標であった[1]。そうでなくとも足を冷やさない履物を履けることから、角界には“雪駄を履くまで頑張る”という言葉がある[2]。
幕下付出力士の初土俵場所は、番付編成上「幕下に在位している力士」と見なされ、当場所の成績も本割と同等に扱われる関係上、幕下付出の地位が最下位格(60枚目格)となっていた1966年5月から2000年9月までの間には、幕下最下位格付出の初土俵場所で負け越して初めて番付に四股名が載った地位が三段目というケースもあった[注釈 3]。その後2000年9月から2023年9月までは幕下付出の地位が10枚目格・15枚目格となっていたが、2023年9月場所終了後に幕下付出の地位は最下位格(60枚目格)に戻ったため、今後は1966年5月から2000年9月までの時期と同様、幕下付出の初土俵場所で負け越して三段目で初めて番付に四股名が載るというケースが起こり得る。なお幕下付出の地位が10枚目格・15枚目格となっていた時期も含めて、幕下付出力士が番付に四股名が載った後に休場もしくは成績不振により三段目以下に陥落するケースもある。
- 待遇
地位 | 幕内(横綱 - 前頭) | 十両 | 幕下 | 三段目 | 序二段 | 序ノ口 |
---|---|---|---|---|---|---|
髷 | 大銀杏 | 丁髷 (十両との対戦時および弓取式、巡業中の初切出演、床山の練習台、引退時の断髪式の際は大銀杏容認) |
||||
服 | 紋付羽織袴 | 着物・羽織(外套・襟巻も着用可) | 着物・羽織 | 着物(浴衣もしくはウール) | ||
帯 | 博多帯 | ベンベルグ | ||||
傘 | 番傘・蛇の目傘 | 洋傘 | ||||
履物 | 足袋に雪駄(畳敷き) | 足袋に雪駄(エナメル製) | 素足に雪駄(エナメル製) | 素足に下駄 | ||
稽古廻し | 白色・木綿 | 黒色・木綿 | ||||
取り廻し | 博多織繻子(規定上、色は現在も取的と同じく黒色と定められているが、事実上自由) | 黒色・木綿(稽古廻しをそのまま使用) | ||||
下がり | 取り廻しの共布 | 紐(のり付けされていない柔らかい物で、色は自由) | ||||
足袋の色 | 白 | 黒 | ||||
控えの敷物 | 私物の座布団(色・デザインは自由) | 共用の座布団(紫一色) | 畳に直座(幕下上位五番および十両との対戦時は十両と同じ座布団) | |||
月ごとの収入 | 月額給与 | なし(自身が付き人を担当している関取などから「小遣い」の名目で個人的に些少を貰う程度) | ||||
場所ごとの収入 | 力士褒賞金 | 場所手当・奨励金 |
三段目の地位から雪駄を履くことが許される。また、最高位三段目以上かつ日本相撲協会在籍5年以上の実績を満たした満20歳以上の者には、「相撲指導適格者」認定講習会の受講要件が与えられる(新規の講習会は2008年を最後に行われず、2012年に講習会自体が廃止された[3])。
パソコンや携帯電話、スマートフォンが普及した平成以降では、三段目に昇進あるいは三段目以上に在位することがそれらの所持を認められる基準となる。琴欧洲は下位時代当時、部屋のルールで三段目以上でないと携帯電話、自転車、パソコンの所持が許されなかったため、序二段に昇進した2003年3月場所はそれらを目当てに右膝亜脱臼を押して強行出場した[4]。
- 取組
本場所では通常15日間で7番の相撲を取る[注釈 4]。
- 定員
定員は東西80枚の計160人である(2025年1月場所から)。ただし三段目付出の力士はこれに含めない。
従来、1984年1月場所から2022年3月場所までは、東西100枚の計200人であったが、力士数の減少に伴い、2022年5月場所から東西90枚の計180人に削減された[5]。2025年1月場所からは東西80枚の計160人に削減された[6]。
それ以前に遡ると、1967年5月場所:東西100枚200人→1970年9月場所:東西80枚160人→1976年5月場所:東西90枚180人(→1984年1月場所:東西100枚200人→2022年5月場所:東西90枚180人)という変遷をたどっている。さらにその前は毎場所変動していたが、戦後最少人数は1948年5月場所と1948年10月場所における43人であり、東西の枚数は1948年5月場所で東西21枚(他に三段目格の番付外1人)、1948年10月場所で22枚(22枚目は西のみ)となっていた。一方、史上最多人数は1961年11月場所における239人(枚数は120枚、120枚目は東のみ)となっている。
- 優勝
優勝賞金は30万円。
大相撲本場所の幕下以下の取組ではスイス式トーナメントを導入している関係上[注釈 5]、1984年1月、三段目の定員が200人と定められて以降すべての場所で7戦全勝の力士が現れており、全勝力士が2人現れて、千秋楽に全勝同士の優勝決定戦が行われる場所もしばしばである。三段目で全勝力士が不在となり、6勝1敗同士の優勝決定戦が発生したケースは、幕下以下の本割が1場所7番と定められた1960年7月場所以降、3例(1964年9月場所(優勝者は若北海)・1970年11月場所(同じく青葉山)・1974年1月場所(同じく弘乃海))しかない。
- 引退後
最高位が三段目の力士は、現行制度では引退するとき、原則として協会に残ることはできず、協会を離れることになる。
力士が引退するとき、若者頭・世話人として採用されるのは、最高位が十両または幕下の力士が原則であるが、かつて光若英夫が最高位三段目ながら世話人として採用されていた前例がある。かつては現役時代の最高位が三段目の年寄もいたが、現行制度ではこのようなケースはあり得ない。ちなみに東西大相撲合併直後の1927年(昭和2年)時点では、現役時代の最高位が三段目の年寄として、7代片男浪(高緑太三郎)がいた[7]。
昇進・陥落要件
三段目に限らず、「番付は生き物」と俗称されるように、成績と翌場所の地位との関係は一定ではない。平成以降の番付編成の傾向をみると、以下の成績を上げれば翌場所の幕下昇進は確実とされる。
- 11枚目以内で4勝以上。
- 25枚目以内で5勝以上。
- 50枚目以内で6勝以上。
- 7戦全勝(番付、優勝の有無を問わず無条件で昇進)。
三段目には、初土俵から最速3場所(番付外、序ノ口、序二段を各1場所)で昇進することが可能である。
記録
いずれも、2025年3月場所終了時点の記録である。
- 在位場所数 - 剛力山太郎の113場所
- 優勝回数 - 3回
三段目まで陥落した元三役
三段目格行司・三段目呼出
行司・呼出共通事項
行司・呼出のうち、三段目に相当する階級の者を三段目格行司・三段目呼出と呼ぶ。本場所の本割では1日の取組の中で、1人につき、12日目までは6番前後、13日目以降は4番又は3番前後を担当する(裁く・呼び上げる)が、取組数によって担当番数が増減することがある。三段目の取組を担当するほか、行司・呼出の人数と取組の番数の関係で、下位の者は序二段の取組を担当することがあるが、逆に序二段格行司・序二段呼出の上位者が三段目の取組を担当する場合もある。また三段目優勝決定戦も三段目格行司・三段目呼出が務める。
三段目格行司・三段目呼出以下は、定員は定まっておらず、人数は状況により変動するが、幕内格行司・幕内呼出~幕下格行司・幕下呼出に比べると、1つの地位の人数が少ない傾向になる。
三段目格行司
三段目格以下の行司は、十両格以上の行司の付け人となる。三段目格行司の装束の菊綴と軍配の房紐の色は、青(実際には緑色)または黒となっており(実際には現時点では現役全員が青(緑色)を使用)、裸足で土俵に上がる。
脚注
注釈
- ^ 相撲診療所の医師である林盈六は、著書『相撲診療所医師が診た力士たちの心・技・体 』(法研、1996年12月)の中で、「幕内から序ノ口までの力士の中で、最も体脂肪率が高いのが三段目力士である」と明らかにした。
- ^ 中島隆信『大相撲の経済学』(東洋経済新報社、2003年9月)では、前掲の林医師のデータを分析し、「三段目が出世の分かれ目」と説く。三段目は将来関取に昇進できる見込みの少ない力士が滞留する地位であるとしている。
- ^ 1974年3月場所の野村双一(後の関脇・出羽の花)・1985年3月場所の小林山秀昭(後の小結・両国)など8例。
- ^ 初日から12日までは2日ごとに1番組まれ、最後の3日間の間に7番目が組まれる。
- ^ 同部屋・力士間の親族関係など、厳密な規定を無視すると、スイス式トーナメントでは出場力士128名中1名が必然的に7連勝となる。
- ^ 川口は当場所直後(番付編成会議の期間中)に引退したため、番付に在位した最終場所を各段優勝という、非常に珍しい経歴を残した。
出典
- ^ Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p44
- ^ 週刊ポスト2018年3月23・30日号
- ^ 夏期相撲大会等催事についてー平成24年
- ^ 「若い衆の頃は地獄でした…」琴欧洲はなぜスピード出世できたのか?(2/3ページ)web Sportiva 2019.07.14(2019年9月20日閲覧)
- ^ 三段目を90枚目まで削減へ 力士数減少で 産経新聞 2022年3月31日
- ^ 「埼玉栄高の斉藤が三段目最下位格の資格を取得 昨年の国体でベスト4」『スポーツ報知』2024年11月28日。2024年11月28日閲覧。
- ^ 年寄名跡襲名者一覧
関連項目
三段目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 10:05 UTC 版)
(椎の木の段)若葉の内侍、六代、小金吾の一行は、平維盛の消息を尋ねに大和国を経由し高野山へと向かっていた。その途中、吉野下市村の茶店で荷を降ろし休憩する。内侍が六代に与える薬を切らしたと聞いた茶店の女は、では自分が買ってきてあげましょうと、内侍たちに後を頼みその場をはずした。 幼い六代は、茶店の傍らにあった栃の木から落ちた木の実を拾って遊んでいる。そこへ風呂敷を背負った旅なりの若い男がやってきてこれも茶店で休む。しばらくして栃の実を拾う様子を見たこの男は、木についているのを取るのがよかろうと、木に向かって石つぶてを投げる。それに当った栃の実がばらばらと落ち、六代は悦んで栃の実を拾う。やがて旅の男は茶店を立った。 小金吾がふと自分の降ろした荷を見た。これは自分が背負ってきた荷物ではない。そういえばさきほどの旅の男が、よく似た荷物を背負っていた。あの男が自分の荷物と取り違えて持っていったのに違いない、取り返そうと小金吾が駆け出そうとするところへ、男が道の向うから大慌てで戻り、小金吾に荷を取り違えた粗相を詫びる。そして荷の中身に間違いが無いかどうか、互いに改めることになった。だが男は思いもよらぬことを言い出す。自分の荷の中には二十両という大金が入っていた。それが今荷を改めるとその金が見当たらない。おまえが二十両の金をくすねたのだろうと、言いがかりをつけはじめたのである。 小金吾はお尋ね者である内侍と六代の身の上を思い、なんとか穏便に済まそうとするが、男はなおも悪態をつき金を出せと騒ぐので、小金吾はついにこらえきれず刀を抜いた。だが内侍はそれを止め、涙ながらに男の言う通りにというので、小金吾も悔しくはあったが金を地面に叩きつけ、内侍と六代を連れてその場を立ち去る。 男は「うまい仕事」といいながら金を拾い集め、さてばくち場へ行こうとすると、戻っていた茶店の女がその前に立ちはだかり、男の胸倉を取って引き据えた。男はこの近在で釣瓶鮓屋を営む弥左衛門のせがれ、いがみの権太というチンピラであった。そしてこの茶店の女とは権太の女房小せんで、そのあいだに善太という子を儲けた仲だったのである。小せんは少し前にこの場に戻り、権太が小金吾たちから金をゆすり取るのを陰で見ていた。こうしたことをするから親の弥左衛門様から勘当も同然に見限られている、子の善太のためも思って行いを改めてくれと意見するが、権太は、そもそも今のように身を持ち崩したのも、もとは御所の町の隠し売女だったお前に入れあげたのがきっかけだなどと開き直る始末。だが傍らにいた善太が、「ととさまサア内にござれ」と権太の手を引くとわが子はかわいいか、権太はその手を引いて小せんとともにわが家へ帰るのだった。 (小金吾討死の段)一方、若葉の内侍と六代探索の追手はついにこの大和にまで及び、内侍たちは追われていた。すでに夜、藤原朝方の家来猪熊大之進は手下を率い内侍たちを襲うが、小金吾は手下たちを切り捨て、大之進も最後には斬り殺すも深手を負わされる。小金吾は嘆く内侍と六代をその場から逃がすと息絶えた。 そこへ村の集まりからの帰り、提灯を持って夜道を歩む釣瓶鮓屋の弥左衛門は偶然小金吾の遺骸を見かける。弥左衛門はいったんは、見知らぬ若者のなきがらに念仏を唱え手を合わせて通り過ぎた。が、何を思ったのかその死骸のところへ立ち戻り、辺りを見回すと自分が差していた刀を抜いて首を切り落とし、その首を持って飛ぶように去っていく。 (鮓屋の段)そのころ釣瓶鮓屋では、弥左衛門の女房と娘のお里が家業の鮓の商いに励んでいた。お里は上機嫌、それというのも明日の晩には下男の弥助と祝言をあげることになっていたからである。弥助は弥左衛門が連れてきた美男子で、お里はそんな弥助に惚れている。弥助が戻り、お里が早速女房気取りで話をするところ、この家の惣領いがみの権太が父弥左衛門の目を盗んでやってきた。権太は母親に話があるから奥へいけと、弥助とお里をその場から追い払った。 母親は、やくざな権太がまた金の無心にでもきたかと機嫌を悪くするが、権太の口から出たのは暇乞いの言葉であった。代官所に納める年貢の金三貫目を人に盗まれ、年貢を納めることができないからその咎で死罪になるのだという。などといいながらうそ泣きをする権太…親から金を引き出すための嘘八百である。しかしその話を甘い母親は真に受け、戸棚から三貫目の金を出し権太に与える。権太はしてやったりと思いながら、それを空の鮓桶に入れて持っていこうとすると、けたたましく戸を叩く音。父親の弥左衛門が帰ってきたのである。権太は慌て、とりあえずそこに並んだ鮓桶の中に金を入れた桶を紛れ込ませ、母親は奥へ、権太は戸口のあたりに身を隠した。 弥左衛門の声に気づいた弥助が奥より出て戸をあけた。弥左衛門は最前道から持ってきた小金吾の首を空の鮓桶に隠し、お里たちを呼ぼうとする弥助を留め、下男の弥助を上座に座らせる。 弥助とは実は、平重盛の子息三位中将維盛であった。源平の合戦の後、熊野詣をしていた弥左衛門は維盛と偶然出会い、この大和下市に連れてきて弥助と名乗らせ匿っていたのだった。平重盛はその昔、後生を頼むために唐土の育王山に黄金三千両を納めようとし、そのとき瀬戸内で船頭をしていた弥左衛門は、この三千両を運ぶ役目を仰せつかった。だが弥左衛門とその仲間の船頭たちは、三千両を盗み仲間内で分け合った。このことは重盛に露見した。しかし重盛は、日本の金を唐土に送ろうとした自らこそ盗賊であると悔い、弥左衛門たちのしたことを不問にしたのだった。弥左衛門はこの昔の恩義に感じてその息子の維盛を助けたのだったが、いま自分の息子がいがみなどと呼ばれて盗み騙りを働くのも、むかし重盛公より金を盗んだ親の因果が子に報いているのだろうと嘆く。 そこへお里が出てきたので、弥左衛門は維盛を残して奥へと入った。お里はひとつ布団に枕をふたつ並べてうきうきしているが、維盛は若葉の内侍や六代のことを思うと気も晴れない。そんな様子にお里はさきに布団で横になり寝てしまう。 自分には本当は妻子がある…と維盛が思い悩んでいると、表から一夜の宿を乞う女の声がする。維盛は、ここは鮓屋で宿屋ではないと家の中から断ったが、幼子を連れているのでどうか一夜…となおも頼むので、直接断ろうと戸を開けた。見れば若葉の内侍と六代。思わぬ再会に三人は驚き涙しつつも、維盛はひそかに内侍と六代を内に招き入れ、互いに積る話をするのだった。 だがその話を、お里は聞いていた。思わずわっと泣き声を上げるお里。逃げようとする内侍と六代をお里はとどめ上座に直し、維盛のことは思い切ると涙ながらに語るので、内侍もその心根に涙する。ところがそこへ村役人が来て、ここに鎌倉の武士梶原景時が来ると告げて去る。維盛たちは驚くが、お里は上市村にある弥左衛門の隠居所に行くよう勧め、維盛たちはその場を立ち退く。だがさらに、物陰に隠れていた権太が飛び出した。それまでの様子を聞いていた権太は維盛たちを捕まえて褒美にしようと、それを止めようとするお里を蹴飛ばし、三貫目の入ったはずの鮓桶を持ちあとを追ってゆく。 お里は弥左衛門と母親を呼ぶ。お里から話を聞いた弥左衛門は刀を差して表を飛び出した。だかその道の向うから、提灯をともした大勢の者がやってくる。「ヤア老いぼれめどこへ行く」そういって現われたのは手勢を率いた梶原景時。 弥左衛門が出ていた村の集まりとは、鎌倉から来た景時が維盛詮議のために村人を集めていたものであった。維盛のことを景時から聞かれた弥左衛門は、当然知らぬ存ぜぬで通したが、景時は、維盛がこの家にいることはすでに露見しており、逃げられないようわざと泳がせていた。維盛の首を討って渡せと弥左衛門に迫る。 すると弥左衛門は、維盛はもう首にしてあるという。弥左衛門は、最前道で拾った若者(小金吾)の首を維盛の身替りにするつもりだった。そして鮓桶に隠した偽首を出そうとする。ところが弥左衛門の女房は、その桶に自分が内緒で権太に与えた三貫目が入っていると思い、景時がいるのも構わずに弥左衛門が桶を開けることを阻む。景時は「さてはこいつら云い合わせ、縛れ括れ」と手下たちにいうまさにそのとき。権太が維盛たちを捕らえたと言ってやってきたのである。 権太は縛りあげた内侍と六代を引き出し、維盛の首を景時の前に出した。維盛を捕らえようとしたが手ひどく抗ったので、殺して首にしたのだという。景時はその働きを誉め、親弥左衛門が維盛をかくまった罪は許してやるというと、親の命はいらぬからほかの褒美がほしいという権太。ではこれをやろうと、景時は着ていた陣羽織を脱いで権太に与えた。これはもと頼朝公が着ていたのを拝領したもので、これを持って鎌倉に来れば、引き換えに金を渡してやる。そう言い残し景時は首を収め、縄付きの内侍と六代も引っ立て手下とともに立ち去った。 弥左衛門の怒りが爆発した。弥左衛門は隙を見て、権太の体に刀を突っ込む。苦しむ権太。母親は悲しむが、怒りの収まらぬ弥左衛門は「こんなやつを生けて置くは世界の人の大きな難儀」と、なおも権太を刀でえぐる。 しかし苦しみながら権太は弥左衛門に言う、「こなたの力で維盛を助けることは叶わぬ」と。そして弥左衛門が偽首を入れたはずの鮓桶をあけると、そこからは三貫目が出てきたのである。権太は自分が持っていった鮓桶の中身が生首(小金吾)と取り違えたことに気付き、これを維盛の身替りとして景時に差し出した。そして縛って渡した内侍六代とは、自分の女房子供の小せんと善太だったのである。権太が笛を吹くと、それを合図に維盛たちが駆けつけた。権太は最前家の中に身を隠すうち、維盛と弥左衛門の身の上を聞き改心することにしたのだという。そして偽首を持って出た途中小せんと善太に出会い、小せんは自分たちを内侍六代の身替りとするよう自ら願い出たのだと語る。弥左衛門はこれを聞き、まともに嫁よ孫よと呼べなかったことを女房とともに悔い嘆くのであった。 維盛と内侍も涙し、維盛は弥左衛門が持ち帰った首というのは自分の家来だった主馬の小金吾であると語る。権太が貰った陣羽織が頼朝の使った品だと聞き、維盛はせめてもの返報にと、刀で陣羽織を裂こうとした。ところがその裏地には、思わせぶりな小野小町の詠んだ和歌が記されている。維盛は不審に思いなおも陣羽織を改めると、そのなかには袈裟衣と数珠が縫いこまれていた。頼朝はその昔、平治の乱で平家に捕まり殺されるはずだったのを、清盛の継母池の禅尼が命を助けた。その恩を思い、今度は維盛の命を助けたのだった。つまり権太が用意した身替りは、すべて最初から見破られていたのである。謀ったと思ったが、あっちがみな合点…と権太は苦しみつつも悔やむ。 維盛は出家を決意し、髻を切ってこの場を立とうとする。内侍とお里は自分たちもともにと維盛にすがるが、維盛はふたりを退け、内侍は高雄の文覚のところに行き六代のことを頼み、お里は兄に代わって親に孝行せよという。弥左衛門は内侍と六代の供をしようと、これも旅支度をして立とうとする。母親はせめて最期の近い息子を看取ってくれと弥左衛門に泣きながら頼むが、「死んだを見ては一足も歩かるる物かいの」と弥左衛門は嘆く。そんな一家の様子を不憫に思いながらも維盛は高野山へと、内侍と六代、弥左衛門は高雄へとそれぞれ向う。権太は、最期を迎えようとしていた。
※この「三段目」の解説は、「義経千本桜」の解説の一部です。
「三段目」を含む「義経千本桜」の記事については、「義経千本桜」の概要を参照ください。
「三段目」の例文・使い方・用例・文例
- 三段目のページへのリンク