かんりん‐まる【咸臨丸】
咸臨丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/24 15:08 UTC 版)
咸臨丸(かんりんまる)は、幕府海軍が保有していた軍艦。木造でバーク式の3本マストを備えた蒸気コルベットである。オランダ語の旧名は「Japan」で、ヤパン号、ヤッパン号、ヤーパン号とも書かれる。「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。
注釈
- ^ #元綱(2010-11)による。姉妹船朝陽丸と同一砲と推定。
出典
- ^ a b c d e #元綱(2010-11)
- ^ a b c d e #日本近世造船史明治(1973)80頁。
- ^ a b 勝海舟『海軍歴史巻之二十三』船譜、政府軍艦
- ^ #帝国海軍機関史(1975)上巻p.203(第1巻171頁)
- ^ #片桐(1969)p.8
- ^ a b #咸臨丸の仕様/要目
- ^ #帝国海軍機関史(1975)別冊表1
- ^ a b #艦船名考(1928)pp.11-12
- ^ #山田(2010-11)
- ^ 『幕府海軍の興亡』75-76ページ
- ^ 『幕府海軍の興亡』77ページ
- ^ 『幕府海軍の興亡』77-78ページ
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- ^ 松浦 2010, p. 136.
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- ^ 金澤 2017.
- ^ 『幕府海軍の興亡』153ページ
- ^ 『幕末の小笠原』116-117ページ
- ^ 『幕府海軍の興亡』103ページ
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- ^ a b 『幕末の小笠原』118ページ
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- ^ a b c 『幕末の小笠原』141ページ
- ^ 『幕末の小笠原』145、148ページ
- ^ 『幕府海軍の興亡』154ページ、『幕末の小笠原』148ページ
- ^ 『幕末の小笠原』148ページ
- ^ 『幕末の小笠原』168ページ
- ^ 『幕末の小笠原』174、177ページ
- ^ a b 『幕末の小笠原』178ページ
- ^ a b 『幕府海軍の興亡』209ページ
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像10、明治二年己巳 軍務官 兵部省、9月。
- ^ a b c 元綱数道『幕末の蒸気船物語』117ページ
- ^ 齊藤虎之介(編)『函館海運史』180ページ。元綱数道『幕末の蒸気船物語』117ページ
- ^ 合田 2000, pp. 225–233.
- ^ “サラキ岬沖から引き揚げられた錨は咸臨丸の錨なのか?”. 木古内町観光協会. 2012年5月13日閲覧。
- ^ 小泉まや (2006年9月26日). “更木岬沖で発見のいかりは咸臨丸 フォーラムで調査内容報告”. 函館新聞 (函館新聞社) 2012年5月13日閲覧。
- ^ 「特集 艦とサムライと赤れんが」 - The JR Hokkaido 2022年10月号 7項
- ^ “第5回 ふね遺産認定のお知らせ”. 日本船舶海洋工学会. 2022年9月30日閲覧。
- ^ “遊覧船「咸臨丸」27日で運休-坂出・与島”. 四国新聞 (四国新聞社). (2008年1月17日). オリジナルの2008年1月19日時点におけるアーカイブ。 2013年6月7日閲覧。
咸臨丸(かんりんまる)
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「おかみさん 新米内儀相撲部屋奮闘記」の記事における「咸臨丸(かんりんまる)」の解説
春日部屋所属力士(連載開始時:幕下23枚目→最高位:幕内→連載終了時:十両)。 イタリア出身。本名のファースト・ネームはアントニオ。「イタリアの太陽」と呼ばれる程のラテン系らしい陽気な性格と、公害のような大きな笑い声の持ち主かつ、多数の女友達と交際するプレイボーイとされる。幕下上位で全勝優勝を遂げ、逆波と同時に十両に昇進し、のちに幕内にも在位。単行本9巻以降は膝の負傷により十両に陥落。作中ではつ子が作ったちゃんこを喜んで食べる数少ない人物。引退後は年寄として協会に残るのではなく、故郷のソレントへ戻ることを考えている。花嵐や逆波のような粗暴性は無く、逆に十両昇進直後の花嵐に扱き使われていた逆波の仕事の一部を担おうとしたり、酒席において後援会会長と杉井の喧嘩の仲裁を担ったりするなど、「お人好し」な傾向が顕著である。単行本1巻の描写によると、手紙などで文章を書く際に舌を露わにする癖がある。
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咸臨丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 17:42 UTC 版)
フィッシャーマンズワーフ開業に合わせて「咸臨丸」(かんりんまる)が就航した。これは幕末の咸臨丸を模して帆船風に3本のマストを装備した観光船で、1861(文久元)年に咸臨丸が小笠原諸島への航海を行った際に塩飽諸島から42名の船員が参加したことに因んでいる(このうち与島からは4名)。観光船は瀬戸大橋の下をくぐって羽佐島、櫃石島などを巡り、約30分のクルーズが人気で初年度は117万人が乗船した。客足が落ちると共に週末のみの航行となったが、建造後20年を経過して各部分の劣化が進行し、2008年1月末で運行を停止した。
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