長崎海軍伝習所とは? わかりやすく解説

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長崎海軍伝習所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/27 09:48 UTC 版)

「長崎海軍伝習所絵図」鍋島報效会

長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)は、安政2年(1855年)から江戸幕府海軍士官養成のため長崎で実施した海軍伝習のことをさす名称。組織としての長崎海軍伝習所なるものは存在はしていない[1]幕臣雄藩藩士から選抜して、オランダ軍人を教師に、蘭学蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせた。築地軍艦操練所の整備などにより安政6年(1859年)に閉鎖された。

併設された飽浦修船工場、長崎製鉄所は、長崎造船所の前身となった。

概要

幕府海軍の養成を目的としたので、軍艦の操縦だけでなく造船や医学、語学などの様々な教育が行われた。例えば、ポンペ・ファン・メーデルフォールトによる医学伝習は、物理学化学に基礎を置く日本の近代医学の始まりとなった。派生した長崎養生所長崎英語伝習所は、後の長崎大学の基となった。また、第二次教師団看護長のインデルマウンは家業の活版印刷術を教授した。この近代的な活版術の導入に関わった本木昌造平野富二は後に明治政府から従五位を追贈された。

練習艦としては、オランダから寄贈された「観光丸」を振り出しに、委託新造艦の「咸臨丸」「朝陽丸」も到着後に使用されたほか、帆船「鵬翔丸」も購入された。さらに、造船実習を兼ねて「長崎形」(瓊浦形、玉浦形、コットル船)と呼ばれる小型帆船も建造され、完成後は航海練習に使われた。

なお、幕府伝習生が「長崎形」を建造したのに対抗するように、佐賀藩伝習生も同型船「晨風丸」を建造している。

沿革

黒船来航後、海防体制強化のため西洋式軍艦の輸入などを決めた江戸幕府は、オランダ商館長の勧めにより幕府海軍の士官を養成する機関の設立を決めた。オランダ海軍からの教師派遣などが約束され、ペルス・ライケン以下の第一次教師団、後にヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ以下の第二次教師団が派遣された。さらに練習艦として蒸気船「観光丸」の寄贈を受けた。

当面の目標は、オランダに発注した蒸気船2隻(後の「咸臨丸」「朝陽丸」)分の乗員養成とされた。そこで安政2年(1855年)に第1期生として、幕府伝習生37名が入校した。さらに、長崎など開港地の沿岸警備要員の要請も急務であったため、翌安政3年(1856年)には第2期生として長崎地役人などからなる幕府伝習生12名が臨時に追加された[2]。その後、近代的な海軍兵学校においては若年の段階から士官養成をすべきとの方針から、第3期生として若手子弟中心の26名が入校した[3]

また、幕府伝習生以外に諸藩の伝習生の受け入れも行われた。安政2年(1855年)12月1日、日蘭和親条約締結の同日から、計128名(薩摩藩16名・佐賀藩47名・肥後藩5名・長州藩15名・筑前藩28名・津藩12名・備後福山藩4名・掛川藩1名)が伝習を受けた。「咸臨丸」と同型の「電流丸」を発注していた佐賀藩出身者が最も多く、活動も活発であった。

築地に軍艦教授所(後の軍艦操練所)の新設が決まり、安政4年(1857年)3月に総監永井尚志はじめ多数の幕府伝習生は築地に教員として移動した。そのため、長崎海軍伝習生は45名程に減った。永井が伝習所を去ったあと、後任の木村芥舟(木村喜毅)が伝習所の総監(総責任者)に就任するまでの間、岡部長常が代わりに総監を務めた[4]。その後、江戸から遠い長崎に伝習所を維持する財政負担が大きいことが問題となり、幕府の海軍士官養成は軍艦操練所に一本化されることになった。安政6年2月9日(1859年3月13日)に長崎海軍伝習所は閉鎖され、オランダ人教官は本国へと引き上げた。長崎海軍伝習所の閉鎖後、練習艦「観光丸」は佐賀藩に貸与され、三重津海軍所で運用をつづけられた。長崎海軍伝習所の卒業生たちは、幕府海軍や各藩の海軍、さらには明治維新後の日本海軍でも活躍した。

長崎海軍伝習所の閉鎖後、幕府海軍では本格的な外国人教官からの伝習は行われなかったともされるが、実際には文久元年(1861年)5月頃以降に、「別段練習」という名称でオランダ人一等士官コルネーリスセンによる海軍練習が長崎で行われた[5]

その後、「富士山丸」の配備に際してフランス軍艦乗員から一時的な指導を受けたり(別名:横浜伝習)、箱館奉行所が独自に外国人船員から指導を受けていた程度であった[6]。唯一、慶応年間になってイギリス海軍からの本格伝習が計画され、慶応4年(1868年)1月開始の予定でトレーシー中佐以下12名の教師団を招聘したが、大政奉還王政復古により実現せずに終わった[7]

人物

総監

教師(ただし第一次教師団・第二次教師団の所属混在かつ脱漏数十名)

第1期生 安政2(1855)年

総監
永井尚志
教授
ペルス・ライケン
幕臣
勝海舟矢田堀景蔵、永持亨次郎、望月大象、鈴藤勇次郎、中島三郎助、下曽根信之、佐々倉桐太郎石井修三小野友五郎春山弁蔵浜口興右衛門岩田平作山本金次郎、金沢種米之助
薩摩藩
木脇賀左衛門(後権一兵衛)、川村純義
肥後藩[5]
池部啓太、小佐井才八、奥山静寂、荘林吉太郎、荘村助右衛門
佐賀藩
佐野常民真木安左衛門
津藩
柳楢悦
職人
上田寅吉(船大工)、鈴木長吉

第2期生 安政3(1856)年

総監
木村喜毅
教授
カッテンディケ
幕臣
伊沢謹吾(頭取)、榎本武揚肥田浜五郎伴鉄太郎松岡磐吉岡田井蔵勝海舟(継続)
佐賀藩
中牟田倉之助
砲術/通事
中村六三郎

第3期生 安政4(1857)年

総監
木村喜毅
教授
カッテンディケ、ポンペ(医学)
幕臣
沢太郎左衛門赤松大三郎内田恒次郎合原操蔵小杉雅之進田辺太一根津勢吉松本良順(医学)、勝海舟
薩摩藩[8]
木脇賀左衛門、沖直次郎、本田彦次郎、川南清兵衛、鎌田諸右衛門、加治木清之丞、磯永孫四郎、税所篤川村純義五代友厚(継続)
佐賀藩
田中久重
福岡藩
香西少輔

第4期生 安政5(1858)年

長州藩
来原良蔵伊藤俊輔(博文、長州五傑の1人)、野村弥吉(井上勝、長州五傑の1人)

別段練習 文久元(1861)年5月頃以降

肥後藩(7月伝習より)[5]
池部啓太・荘村助右衛門・兼坂熊四郎・小野敬蔵

脚注

  1. ^ 金澤裕之『幕府海軍の興亡』慶應義塾大学出版会、93ページ
  2. ^ 藤井(1991年)、20頁。
  3. ^ 藤井(1991年)、25頁。
  4. ^ ある幕臣 永井尚志 『岡部長常』
  5. ^ a b c 一般社団法人 長崎親善協会 2016年11月27日『荘村助右衛門(省三)』 長崎フルベッキ研究会レポート
  6. ^ 藤井(1991年)、150-151頁。
  7. ^ 藤井(1991年)、155頁。
  8. ^ 「薩摩が生んだ国際人」と西南戦争 その一,長谷川 宏,鹿児島県 (PDF)

参考文献

関連文献

関連項目

座標: 北緯32度44分42.12秒 東経129度52分24.53秒 / 北緯32.7450333度 東経129.8734806度 / 32.7450333; 129.8734806


長崎海軍伝習所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 10:10 UTC 版)

勝海舟」の記事における「長崎海軍伝習所」の解説

嘉永6年1853年)、ペリー艦隊来航いわゆる黒船来航)し開国要求されると、幕府老中首座阿部正弘幕府決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書幕臣もとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。これに海舟も海防意見書提出嘉永6年7月西洋式兵学校設立正確な官板翻訳書刊行の必要を説く)、意見書阿部目に留まることとなり、目付兼海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇得たことから安政2年1855年1月18日異国応接掛附蘭書翻訳御用任じられ念願の役入り果たし、海舟は自ら人生の運を掴むことができた。 同月から洋学所創設下準備1月23日から4月3日にかけて勘定奉行石河政平と一翁が命じられ大阪湾検分調査参加経て7月29日に長崎海軍伝習所に入門した伝習所ではオランダ語がよくできたため教監も兼ね伝習生オランダ人教官連絡役も務めた。この時の伝習生には矢田堀鴻(景)、永持亨次郎らがいる。しかし、海軍知識はほとんど無かったため、本心では分野違い長崎赴任嫌がっていたが(8月20日象山の手紙より)、幕府期待応えない訳にも行かず10月20日に船で長崎来航以後3年半に渡り勉強取り組むことになる。長崎赴任してから数週間聴き取りもできるようになった本人語っているためか、引継ぎ役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす。 海舟の学問成果については賛否両論で、藤井哲博は海舟の成績悪く安政4年1857年3月一期生江戸へ戻ったのに海舟が長崎残った点を挙げて落第したと書いたが、松浦玲藤井記述反論安政3年1856年6月に海舟が伝習所成果見切りをつけて江戸へ帰府伺い提出し、翌4年1月江戸軍艦教授所(後の軍艦操練所)を創設することを幕府考案帰府決まった所、一転して残留変更したことを詳細に記し落第留年ではないと主張している。しかし、海舟が頻繁に船酔い苦しんでいたことと、思うよう勉強がはかどらなかった(特に数学が苦手)ことは事実であり、海舟が船乗りにとても向かない体質から帰府の話が浮上する理由があった。いずれにせよ、海舟は安政4年時点ではまだ江戸へ戻れず、更に2年長崎で過ごすことになる。 この時期当時薩摩藩主・島津斉彬知遇得ており、安政5年1858年3月5月に海舟は薩摩訪れて斉彬と出会う2人初対面ではなく藩主になる前の斉彬が江戸で海舟と交流していたが、後の海舟の行動大きな影響与えることとなる。 同年から始まった安政の大獄推薦者の一翁が左遷されたが、長崎にいる海舟に影響無く大獄主導した大老井伊直弼政治手法大獄一因である南紀派一橋派政争批判する余裕見せている。8月外国奉行永井尚志水野忠徳遣米使節建言すると、10月11月それぞれ永井水野宛ててアメリカ行き希望2人から了解返事取り付け安政6年1月5日朝陽丸乗って1月15日帰府幕府から軍艦操練所教授頭取命じられ新たに造られ軍艦操練所海軍技術教えることになる。

※この「長崎海軍伝習所」の解説は、「勝海舟」の解説の一部です。
「長崎海軍伝習所」を含む「勝海舟」の記事については、「勝海舟」の概要を参照ください。

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