石河政平とは? わかりやすく解説

石河政平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/18 03:43 UTC 版)

 
石河政平
時代 江戸時代後期 - 末期(幕末
生誕 寛政12年(1800年
死没 安政5年11月6日1858年12月10日[1]
別名 数馬(通称)
官位 従五位下、山城守、土佐
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶家定家茂
氏族 石河氏
父母 父:石河政央
政徳
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石河 政平(いしこ まさひら)は、江戸時代後期の旗本

生涯

石高は2700石。文化5年(1808年)に父・政央の跡を継ぐ。西ノ丸目付、長崎表御取締御用、京都町奉行、小普請奉行、作事奉行などを歴任した後、天保14年(1843年)閏9月20日、勘定奉行となり、海防掛を兼ねる。安政2年(1855年)8月9日、勘定奉行を辞任し、一橋家家老となる。安政4年(1857年)6月22日に側衆となる。

安政5年(1858年)7月6日、職務怠慢につき御役御免・寄合差控を申し付けられ、11月6日に自殺[1]。しかし、しばらく埋葬を許されなかったという[2]。没後の安政6年(1859年)10月27日、追罰として石高のうち700石を召し上げられる。同年12月19日には差控解除となるが、12月29日に子の政徳が家督を継いだ。

御役御免となった同日には若年寄・本郷泰固が罷免・減封されているが、職務怠慢とは表向きで、実は同じく一橋派であったためではないかと推測される。

脚注

  1. ^ a b 『幕末維新人名事典』学芸書林、1978年、p.46。
  2. ^ 藤井貞文『宿命の将軍徳川慶喜』吉川弘文館、1983年、p.73。

参考文献

  • 河原芳嗣『江戸の旗本たち』(アグネ技術センター、1997年)200-202頁




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