石河定源とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 石河定源の意味・解説 

石河定源

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/28 02:15 UTC 版)

 
石河 定源
時代 江戸時代中期
生誕 貞享4年(1687年)4月
死没 明和2年(1765年)4月21日
別名 定源(諱)、孔昭(字)、文左衛門、弥四郎、友之丞、焉用軒(号)、領全
戒名 焉用軒淵領全居士
墓所 臨済山龍津寺(三重県津市
幕府 江戸幕府
主君 藤堂高睦藤堂高般藤堂高敦→藤堂高覩→藤堂高朶
津藩
氏族 細川氏石川氏
父母 父:細川堯有、義父:石河咸倫
兄弟 長男、定源
伊黒氏常女
今井伊右衛門妹
長男、石河光端、三男、長女
テンプレートを表示

石河 定源(いしかわ じょうげん)は、江戸時代中期の学者

概要

大覚寺に仕えた細川堯有の次男で、元禄12年(1699年)に13歳で石河咸倫や木村正勝・松本以休に師事した。宝永2年(1705年)に津藩主・藤堂高睦の命で咸倫の養子となり、その死後に禄職を継いで享保11年(1726年)に五人扶持を加賜された。寛保4年(1744年)に藤堂高般の師に、宝暦3年(1753年)に更に藤堂高敦・藤堂高覩・藤堂高朶の師となる。同11年(1762年)に致仕し、明和2年(1765年)4月21日に79歳で死去し、の臨済山龍津寺に葬られた[1][2][3]

脚注

出典

  1. ^ 大覚寺史資料編纂室編『大覚寺文書 上[1]』(大覚寺、1980年)
  2. ^ 津市教育委員会編『津市文教史要 [2]』(大和学芸図書、1980年)
  3. ^ 柴田嘿天「藤樹学派と伊勢の陽明学者石河定源[3]」 『観想』(観想発行所、1925年)



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  石河定源のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

石河定源のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



石河定源のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの石河定源 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS