安倍瑞屯
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 宝永5年(1708年)6月25日 |
別名 | 吉十郎[1](通称)、長徳院[1] |
戒名 | 了雲[1] |
官位 | 法眼 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川綱吉 |
氏族 | 芝山家→安倍氏 |
父母 | 父:芝山宣豊、養父:安倍順貞 |
兄弟 | 芝山定豊、阿部房豊、瑞屯 |
妻 | 望月甫庵元珍娘 |
子 |
瑞運、正直 養子:設楽貞政室など |
特記 事項 | この家の名字については「安部」「安倍」「阿倍」の表記ゆれがある(安倍順貞を参照) |
安倍 瑞屯(あべ ずいじゅん[1])は、江戸時代前期から中期にかけての医師。安倍順貞の跡を継ぎ、幕府医官・安部長徳院家(600石)2代となる。僧位は法眼。
生涯
権大納言・芝山宣豊の子[要出典]。旗本・医師安倍順貞の養子[注釈 1]。
延宝4年(1676年)に順貞が没したため、その遺跡を継ぎ、侍医となる[1]。延宝8年(1680年)11月25日、将軍継嗣となった徳川綱吉の長男・徳川徳松に附けられ、西の丸に勤務[1]。天和3年(1683年)7月5日、徳松が死去したために本丸勤務に戻る[1]。同年12月25日、法眼に叙位[1]。
元禄元年(1688年)5月28日、病のために勤仕を怠っているとして奥勤めを免じられ[1]、6月23日に小普請入り[1]。出仕をはばかることが命じられ、元禄4年(1691年)4月24日に赦されている[1]。
元禄14年(1701年)12月12日に致仕[1]。宝永5年(1708年)6月25日死去[1]。
系譜
以下は『寛政重修諸家譜』による[1]。『寛政重修諸家譜』では姓は「阿倍」表記である[1]。
- 父:阿倍順貞
- 母:不詳
- 妻:望月元珍(甫庵)の娘
- 生母不明の子女
- 女子 - 安倍瑞運の妻
- 男子:阿倍正直 - 瑞運の養子となる
- 女子 - 大岡光義の妻
- 女子 - 設楽貞政の妻
- 女子 - 今村長詳の妻
- 女子 - 坂井政直の妻
- 養子
- 男子:阿倍瑞運 - 瑞屯の娘を娶り嗣子となる。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻第六百四十一
- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082713/208
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