遠山景元の建議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 23:37 UTC 版)
株仲間の解散に反対し、後に町奉行から大目付に転じた遠山景元は、弘化2年(1845年)3月に町奉行(南町奉行)に再任した。再任したその年に、遠山は諸問屋の復活を阿部正弘に建議したが、その時は時期尚早とされ却下された。江戸に品不足や物価高からの深刻な影響は出ていないことから役人達の間で意見がまとまらなかったためであり、品不足が生じるようなら、その品の問屋仲間に限って再興すればよく、全商品の問屋再興(「古復」)はあり得ないとする意見が大勢だった。しかし、遠山は、一部の問屋だけ再興すれば、その不公平さから幕府を疑い、さまざまな悪巧みを生んで、人の欠点をあら探しして異変を起こすような事態が起こるとして、2、3品に限っての問屋再興には反対した。同様の再興願いを同年10月にも提出したが、その時も却下されている。 遠山は、嘉永元年(1848年)4月には、株仲間解散令は「商法破却」であり、古来から「商法」が定まっているのだからこれを復興すべきこと、「自然捨置候而ては追々世上金銀不融通に相成り、四民困窮に到」ることを建議した。同年7月には、豊作による米価下落を受けて、米問屋・蔵宿・船床・髪結床・八品商(質屋・古着屋など)・魚問屋・人宿を試しに問屋組合の再興させようという、譲歩した案を提出している。しかし、この時も株仲間がかつてのような特権組織になることを懸念した勘定奉行たちにより反対されている。そして同年9月には株仲間禁止によって、それまで株を担保にした融資ができなくなって資金融通が停滞する一方で物価は下がらなかったこと、旧来の問屋株仲間は「商法取締」にもなるという意見書も提出した。 嘉永2年(1849年)5月の上申書では、町人はもちろん、穢多・非人身分の者でも、彼らの生活の利益になるならば、取り調べたうえで支配や行政の害にはならないことは取り上げて、町奉行として実施してやりたいと遠山は述べている。そして町人が商売不振で金回りが悪いと言われれば、これまでのように御用金を上納させるのが難しくなる、だから天下太平を維持するためには町人の気分に配慮することも大事だと述べている。 ほかにも、都市の旧来の株仲間だけでなく、仲間外の無株人の在方株による新組・仮組をふくめた株仲間の再興も提唱していた。ただし、遠山の上申書では、このままでは商人による諸大名への融資や幕府への臨時の御用金供出もままならないという意見も挙げている一方で、十組問屋の名称および1万200両の冥加金は復活させないと記している。 数々の建議を受けた老中阿部正弘は、嘉永3年(1850年)10月に株仲間再興を決め、遠山や勘定奉行の石河政平らに調査を命じ、触の文面の調整を命じた。この調査により、『諸問屋再興調(しらべ)』(全26冊)という調査書類が作成された。
※この「遠山景元の建議」の解説は、「株仲間再興令」の解説の一部です。
「遠山景元の建議」を含む「株仲間再興令」の記事については、「株仲間再興令」の概要を参照ください。
- 遠山景元の建議のページへのリンク