江戸薩摩藩邸の焼討事件
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江戸薩摩藩邸の焼討事件(えどさつまはんていのやきうちじけん)は、薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃した為、幕末の慶応3年12月25日(1868年1月19日)に江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸[注釈 1]が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、放火により焼失した事件のことである。この事件からの一連の流れが戊辰戦争のきっかけになった[1]。
注釈
出典
- ^ “江戸薩摩藩邸焼討事件~挑発にのった幕府”. WEB歴史街道. 2024年1月19日閲覧。
- ^ “テキスト / 薩摩藩邸焼討事件”. adeac.jp. 2024年1月19日閲覧。
- ^ 『幕末維新(第5編)』山内家史料刊行委員会編纂、672頁
- ^ a b 『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社、1893年
- ^ 『土佐維新史料』書翰篇(1)
- ^ 『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年)
- ^ 『維新前後経歴談』
- ^ a b c 『栃木市の歴史』
- ^ a b c d 『相楽総三とその同志』
- ^ a b 『岩舟町の歴史』
- ^ 「復古記II 八六五」
- ^ 『板垣精神』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編
- ^ 『徳川慶喜公傳(4)』渋沢栄一著、267-268頁
- ^ a b 『板垣退助君戊辰戦略』一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻
- ^ a b 板垣退助『維新前後経歴談』(所収『維新史料編纂会講演速記録(1)』159頁、『板垣退助君戊辰戦略』他より。
- ^ 「後、奥羽戦争が終わり、私は東京にて西郷に面会した。その席に三条(実美)公もお居合わせで、其他の諸人も居た。平素沈黙の西郷は私を見ると忽ち口を開いた。『板垣さんは恐ろしき人よ。浪人を薩摩屋敷へ担ぎ込んで、屋敷の焼討ちに遭はした』と。私は直ぐに之に応じた。『それはむごい事よ。浪人の統御者(西郷)こそ如何にやと思ふに。然し好き幕明きではないか』西郷はそれを聞いて呵々笑ふた」(『無形伯旧夢談』田岡髪山筆録より)
- ^ 友愛労働歴史館「ユニテリアン・ミッションのスタートから130年、明治22年10月!」。2022年10月30日閲覧。
- ^ 中村敏 2009, p. 182.
- ^ 土屋博政 2002.
- ^ オダミツオ「出版・読書メモランダム」 (2017年). “古本夜話667 杉浦貞二郎と「基督教各派源流」”. hatenablog. 2021年9月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月22日閲覧。
- 1 江戸薩摩藩邸の焼討事件とは
- 2 江戸薩摩藩邸の焼討事件の概要
- 3 評価
- 4 外部リンク
江戸薩摩藩邸の焼討事件
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「伊牟田尚平」の記事における「江戸薩摩藩邸の焼討事件」の解説
慶応3年(1867年)、西郷隆盛らは江戸幕府を挑発し、武力討幕に結び付ける目的で、御用盗と呼ばれる不逞浪人組織を糾合し、商家への強盗や江戸市中で江戸城二の丸に放火するなどの破壊工作を計画し、益満休之助、伊牟田を江戸に派遣した。江戸では薩土討幕の密約に基づき、土佐藩士・乾退助の庇護下にあった中村勇吉、相楽総三らが加わった。中村半次郎(桐野利秋)が遺した『京在日記』には慶応3年(1867年)10月3日に「益満休之助ほかに弓田正平(伊牟田尚平)、今日より江戸に差し立てられ候事、もっとも彼の表において義挙のつもり」と記されている。 慶応3年(1867年)10月14日、幕府が大政奉還を行ったため、吉井友実は益満と伊牟田に工作の一時中止を書状で指示している。しかしながら、集めた浪人たちを抑えることができず、御用盗は江戸市中で強盗などを行い、江戸の住民は無関係な辻斬りや便乗した強盗なども薩摩御用盗の仕業と噂しあうようになった。このため、老中・稲葉正邦、勘定奉行・小栗忠順が薩摩藩邸にたむろしていた御用盗の引き渡しを要求するが、薩摩藩がこれを拒否したため、12月25日、江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きることになる。この時に益満は捕縛されたが、伊牟田と相楽は逃れている。 この後、相楽総三は赤報隊を組織するが新政府によって偽官軍として捕縛され処刑されることになる。結果として間に合わなかったものの、伊牟田は相楽の救出のために、京都から下諏訪へ向かったことが史料に残っている。
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江戸薩摩藩邸の焼討事件
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これらの状況下で幕臣達は「続出する騒乱の黒幕は薩摩藩」との疑いを強くし、将軍の留守を守る淀藩主の老中稲葉正邦はついに武力行使も辞さない強硬手段を決意する。12月24日(1868年1月18日)、庄内藩江戸邸の留守役松平親懐(権十郎)に「薩摩藩邸に賊徒の引渡しを求めた上で、従わなければ討ち入って召し捕らえよ」との命を下す。これらの命を受けて、12月25日未明、庄内藩に加え、上山藩、鯖江藩、岩槻藩の三藩と、庄内藩の支藩である出羽松山藩が薩摩藩三田屋敷を包囲。交渉役の庄内藩士・安倍藤蔵が薩摩藩邸を単身で訪問。藩邸の留守役の篠崎彦十郎を呼び、中村らの浪士を武装を解除した上で一人残らず引き渡すよう通告したが、その場で篠崎は即時引き渡しを拒否。安倍の指示によって、幕府方は薩摩藩邸討入りを決行。篠崎は庄内藩兵に槍で突き殺される。さらに包囲する庄内藩兵たちも砲撃を始め、同時に西門を除く三方から薩摩藩邸に討ち入りを開始。迎え撃つ薩摩藩側も応戦するが、多勢に無勢であり戦闘開始から3時間後、旧幕府側の砲撃や浪士らの放火によって薩摩藩邸はいたるところで延焼し、もはや踏みとどまれる状況ではなかった。当初より脱出を指示されていた中村ら浪士達は、火災に紛れて藩邸を飛び出し、二十数名が一組となって逃走。(江戸薩摩藩邸の焼討事件)
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江戸薩摩藩邸の焼討事件
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「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「江戸薩摩藩邸の焼討事件」の解説
12月23日夜、薩摩藩の支藩・佐土原藩士の一隊は三田の庄内藩屯所を銃撃し、詰め合いの者を殺傷した。さらに同日江戸城二の丸附近も炎上し、これらの工作活動に堪りかねた江戸幕府は薩摩藩上屋敷の浪人処分を決定した。25日、旧幕府は薩摩藩に浪人たちの引き渡しを求めたが薩摩側が拒絶したため、庄内藩らによる江戸薩摩藩邸の焼討事件が勃発した。 27日(1868年1月21日)、薩摩・長州・土佐・安芸四藩が、天皇観閲の下、京都御所・建春門前で軍事演習を披露。[要出典]
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