生い立ちと出世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/10 14:47 UTC 版)
天保9年、庄内藩中老の松平権右衛門親敏の子として生まれ、安政6年(1859年)に家督を継ぐ。文久元年(1861年)蝦夷地副奉行、文久3年には当時庄内藩預かりとなっていた新徴組の御用掛に命じられた。元治元年9月200石を加増、1000石となる。同年11月、江戸定府を命じられ、翌慶応元年(1865年)、庄内藩兵の江戸市中取締を指揮するようになる。 慶応2年(1866年)、藩内で改革派藩士の酒井右京、大山庄太夫らを逮捕。翌年藩内の改革派を弾圧し、藩論は佐幕に統一した(丁卯の大獄)。そんな矢先の慶応4年(1868年)、相楽総三ら薩摩藩の意を汲んだ浪士たちに挑発され、他藩兵とともに江戸三田の薩摩藩邸を襲撃することを決断した(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。結果的に戊辰戦争の引き金を引いた。 戊辰戦争では、庄内藩は旧幕府軍として奥羽越列藩同盟の中心となり、官軍と戦う。だが周囲の諸藩は次々と破られていき、明治元年9月26日(1868年11月10日)、降伏した。ただし、西郷隆盛らによる戦後処理は寛大なものであり、親懐は明治政府に仕えることとなる。
※この「生い立ちと出世」の解説は、「松平親懐」の解説の一部です。
「生い立ちと出世」を含む「松平親懐」の記事については、「松平親懐」の概要を参照ください。
- 生い立ちと出世のページへのリンク