生い立ちとベネズエラ東部戦線
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「アントニオ・ホセ・デ・スクレ」の記事における「生い立ちとベネズエラ東部戦線」の解説
1795年、スペイン領ベネズエラ総督領(スペイン語版)東部、現スクレ州のクマナで生まれた。父はビセンテ・デ・スクレ、母はマリア・マヌエラ・デ・アルカラ。幼くして母をなくした。代々軍人の家系で、子供の頃から軍事教育を受け、要塞建築と砲術の知識を身に付けた。 1811年にスペインに対する独立戦争が起きると、15歳で独立軍に参加した。すぐに中尉になり、フランシスコ・デ・ミランダの下で戦った。ミランダが敗れると、クマナ経由でイギリス領のトリニダード島に逃れた(トリニダードはベネスエラ沖合い12kmの島で、1798年まではベネスエラ総督領の管轄するスペイン領だった)。 1813年にグイリアへの上陸に加わり、翌年サンティアゴ・マリニョの指揮下でボカチカの戦いに参加した。1月に中佐に昇進してボリバルの指揮下で第一次カラボボ会戦、ラプエルタの戦いを経験した。次いでベルムデスの指揮下でウリカの戦いに加わったが、敗れてマルガリータ島に退き、さらに再びイギリス領に逃げた。1815年にベルムデスに従ってカルタヘナに上陸したが、同年中に敗れてハイチに逃れた。ここまでの戦いの中で、王党派はスクレの2人の兄弟を捕らえて銃殺した。 1816年にふたたびグイリアに上陸し、大隊長を経て、マリニョの参謀長になった。しかし、マリニョがシモン・ボリバルに反抗して自らを総司令官に任じたときには、ボリバルを支持してその企図を失敗させた。1817年5月に大佐に昇進し、ベルムデスの参謀長として東部戦線での戦いを続けた。1819年8月に准将になった。
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