生い立ちとドイツでの成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/03 04:10 UTC 版)
「ハヌシュ・ヴィハーン」の記事における「生い立ちとドイツでの成功」の解説
1881年、まだ13歳の頃から、1887年までプラハ音楽院にてフランチシェク・ヘーゲンバルト(František Hegenbarth)に師事し、ペテルブルク音楽院に留学してカルル・ダヴィドフの薫陶を受ける。18歳の若さでザルツブルク・モーツァルテウム音楽アカデミーの教員に就任した。さるロシア人を後援者とする私設オーケストラの団員となってニースやルガノを訪れた後、同胞カレル・ハリーシュ(Karel Halíř)がコンサートマスターを務めるベンヤミン・ビルゼのベルリン管弦楽団(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の前身)に1年間在籍した。後にシュヴァルツェンブルク公のゾンダースハウゼン宮廷管弦楽団に入団し、同地でフランツ・リストと親交を結んだ。 その後は首席ホルン奏者フランツ・シュトラウスで知られるミュンヘン宮廷管弦楽団に移籍した。ミュンヘンには8年間在住し、ハンス・フォン・ビューローやリヒャルト・ワーグナーのサークルにも加わった。ワーグナーにはバイロイト音楽祭で演奏家として採用されており、フランツ・シュトラウスの息子リヒャルト・シュトラウスからは、《弦楽四重奏曲イ長調》作品2と《チェロ・ソナタ ヘ長調》作品8を献呈されている(ヴィハーンは後者を1883年12月にニュルンベルクで初演した)。リヒャルト・シュトラウスの《チェロと管弦楽のためのロマンス》もヴィハーンのために作曲され、ヴィハーンが1884年2月15日にバーデンバーデンで初演を行なってはいるものの、ヴィハーンには献呈されなかった。この頃までにヴィハーンは、ドレスデン出身のピアニスト、ドーラ・ヴァイスと結婚しているが、ドーラ夫人が5歳年下のリヒャルト・シュトラウスと恋に落ちたのである。二人に肉体関係があったのか、あるいはその手前だったのかは確証がないが、ヴィハーンは非常に嫉妬深い性格であり、結婚生活は破綻に向かった。その後はプラハの母校に戻っている。
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