生い立ちとゴルフ成績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 15:33 UTC 版)
「フィンドレー・S・ダグラス」の記事における「生い立ちとゴルフ成績」の解説
スコットランドのセントアンドリュースに生まれ、少年時代からゴルフを始めていた。1892年から1896年にかけてセントアンドリュース大学で学び、そのゴルフチームにも所属していた。卒業後の1897年、長兄であるロバートの後を追って米国に移住した。 1897年の全米アマチュア選手権では予選を通過したが準決勝で敗れた。1898年にはウォルター・B・スミスを 5&3 で破り優勝した。その後2006年にリッチー・ラムゼーが優勝するまでこの大会で優勝したスコットランド人はいなかった。ダグラスは1899年および続く1900年も決勝戦まで進んだが、それぞれH・M・ハリマンおよびウォルター・トラビスに敗れて2位となっている。1903年に一度だけ全米オープンに出場したことがあり、結果は総合8位でローアマチュアだった。1901年と1903年のメトロポリタンアマチュアにも優勝した。 ニューヨーク地域のいくつかのクラブに所属し、また、他のクラブの設立を支援した。1908年にはナショナルゴルフリンクスオブアメリカの70人の創設協力者の一人に名を連ねた。このような貢献の結果、メトロポリタンゴルフ協会において17年間にわたり様々な管理役職に就き、1922年から1924年にかけては会長も務めた。 1926年にUSGAの副会長に就任、続いて1929年から1930年にかけては会長職を務めた。1930年にボビー・ジョーンズがグランドスラムを達成したが、4つのタイトルのうち全米オープンと全米アマの優勝トロフィーを手渡したのはダグラスだった。 後年はシニアゴルフに注力し、1932年に全米シニアゴルフ協会(United States Senior's Golf Association、USSGA、USGAとは別団体)選手権に優勝し、その後はこの団体の組織管理に携わり、1937年から1941年の間は会長の座にあった。このUSSGA選手権は、USGA の主催で1955年から始まった全米シニアアマチュア選手権の前身となった。 ダグラスはゴルフにおける卓越したスポーツマンシップが認められ、1959年にUSGAによりボブジョーンズ賞が授与された。同じ年の復活祭の日曜日に死亡したが、遺族はいなかった。遺灰はセントアンドリュースの町にある墓地の家族用区画に埋葬された。1990年後半、R&A は破損がひどかった墓石の修復を行い、碑文になかったダグラスの名前を追記した。
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