ベンヤミン・ビルゼとは? わかりやすく解説

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ベンヤミン・ビルゼ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/19 08:58 UTC 版)

ベンヤミン・ビルゼ
Benjamin Bilse
基本情報
生誕 1816年8月17日
プロイセン王国、リーグニッツ(現レグニツァ
死没 (1902-07-13) 1902年7月13日(85歳没)
プロイセン王国、リーグニッツ
ジャンル クラシック
職業 指揮者作曲家
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ベンヤミン・ビルゼ(Benjamin Bilse, 1816年8月17日 - 1902年7月13日)は、ドイツ指揮者作曲家

生涯

ビルゼはプロイセンシュレージエン州英語版リーグニッツ(現ポーランドレグニツァ)に生まれた。ウィーン音楽院においてヴァイオリニストヨーゼフ・ベームの下で恵まれた音楽教育を受けた彼は、ヨハン・シュトラウス1世のオーケストラで演奏した。リーグニッツに戻った彼は1842年に町のカペルマイスターに就任した。

ビルゼは1867年からベルリンライプツィヒャー・シュトラーセ英語版にあるベルリン・コンサートハウス(Berliner Concerthaus )でビルゼ楽団Bilse'sche Kapelle)を組織して定期的に演奏した。このオーケストラは次第に人気を獲得していき、ビルゼはヨーロッパ中を演奏旅行して周りサンクトペテルブルクリガワルシャワアムステルダムウィーンで演奏会を開いた。このオーケストラは1867年パリで行なわれた万国博覧会に出演し、ヨハン・シュトラウス2世と共にワルツ美しく青きドナウ』を演奏している。1873年にはリヒャルト・ワーグナーがこのオーケストラの指揮台に上がり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の御前で演奏を披露した。

1882年にビルゼと対立したビルゼバンドの54人の奏者がビルゼの元を離れ、ルートヴィヒ・フォン・ブレナーを指揮者に立ててベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を設立した[1]。この数年後に引退してリーグニッツに戻り、同地で生涯を閉じた。

作品

作曲家としてのビルゼはおびただしい数のワルツポルカカドリーユ行進曲などを作曲し、そのうち42作品が出版された。

出典

  1. ^ Die drei Krisen der Philharmoniker”. Berliner Zeitung (2007年5月). 2012年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月1日閲覧。

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