ヨーゼフ・ベーム
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この項目では、インド・ヨーロッパ語族風に、名前を名姓順で表記していますが、ハンガリー語圏の慣習に従いベーム・ヨージェフと表記することもあります。(Template:ハンガリー人の姓名) |
ヨーゼフ・ベーム Joseph Böhm | |
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基本情報 | |
出生名 | Böhm József |
生誕 |
1795年4月4日![]() |
死没 |
1876年3月28日(80歳没)![]() |
ジャンル | クラシック |
職業 | ヴァイオリニスト、作曲家 |
ヨーゼフ・ベーム(Joseph Böhm 1795年4月4日 - 1876年3月28日)は、オーストリアのヴァイオリニスト、作曲家。ウィーン音楽院の学長を務めた。
生涯
ハンガリーのペシュトでユダヤ人の一家に生まれた[1]。父とピエール・ロードの薫陶を受けた。兄であり、数学者のゲオルク・カントールの母方の祖父にあたるフランツ・ベーム(1788年-1846年)もロシア帝国で広く知られたヴァイオリン奏者であった[2]。
1816年にウィーンでデビューを飾り、ロドルフ・クレゼールとフランツ・ヴァイスの作品を演奏した。その後、イタリア、ドイツ、フランスへと演奏旅行に赴いた。
1819年6月1日にウィーン音楽院へ教授として迎えられるが、これが同音楽院における最初のヴァイオリンの教授であった。その後1848年まで教授職を務め、イェネー・フバイ、ヨーゼフ・ヨアヒム、エドゥアルト・レメーニ、ヤーコプ・ドント、ゲオルク・ヘルメスベルガー1世、ヤーコプ・グリュン、ジギスムント・バハリヒらを育てた。
室内楽への関わりが深く、1816年に専らベートーヴェンとハイドンの弦楽四重奏曲を扱う演奏会を主催している。また、カール・マリア・フォン・ボックレトと協調関係にあった。
1821年には弦楽四重奏団に加盟、同団はヴァイオリンのカール・ホルツ、ヴィオラのフランツ・ヴァイス、チェロのヨーゼフ・リンケによって構成されていた。ベートーヴェンと仕事上の付き合いがあり、彼の弦楽四重奏曲第12番の初演を担った四重奏団の中にいた。さらに1824年5月7日に行われたベートーヴェンの交響曲第9番の初演には、管弦楽団の一員として参加していた[3]。
ウィーンで没した。
出典
- ^ Modern Jews and their musical agendas, Ezra Mendelsohn, Oxford University Press, 1993, page 9
- ^ ru: The musical encyclopedia (Музыкальная энциклопедия) dic.academic.ru
- ^ Cook, Nicholas (1993). Beethoven: Symphony No. 9. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 0-521-39039-7. P. 22
参考文献
- Clive, Peter (1997). Schubert and His World: A Biographical Dictionary. Oxford University Press. pp. 17–18. ISBN 0-19-816582-X
外部リンク
- ヨーゼフ・ベームの楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト
- ベームの略歴 (英語)
ヨーゼフ・ベーム (Josef Behm)
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「西部戦線異状なし」の記事における「ヨーゼフ・ベーム (Josef Behm)」の解説
パウルのギムナジウムでの級友。太っていて陽気な性格。カントレックが教え子たちに出征を促した際、戦死への恐怖という率直な理由から生徒の中で最も強く異を唱えた。結局はカントレックに説得されて志願し、皮肉にも級友で最初に戦死してしまう。
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