演奏家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 00:40 UTC 版)
1949年、第18回日本音楽コンクールで1位となる。1950年、東京交響楽団の定期演奏会でラロのチェロ協奏曲を弾いてプロデビュー(当時20歳)。1955年25歳でNHK交響楽団首席チェロ奏者に就任、1956年日本フィルハーモニー交響楽団首席チェロ奏者、1969年東京交響楽団首席チェロ奏者を歴任する。1969年よりオランダに留学。 1960年、黛敏郎作曲の「独奏チェロのための“文楽”」(大原美術館30周年を記念した委嘱作)を大原美術館にて初演した。同美術館初のギャラリーコンサートであった。また「プロムジカ弦楽四重奏団」のメンバーとして岩淵竜太郎、堀伝、江戸純子も共に演奏を行った。 1993年7月23日、北海道南西沖地震の被災者への募金を呼びかけるための、国分寺女性合唱団「コーロ・アマービレ」の記念コンサートに招聘され、北海道民謡「江差追分」などを演奏した。 1996年8月3日、宮沢賢治100周年を記念して岩手県と花巻市が企画したイベントの一環で、「賢治童話村」で岸田今日子氏の朗読を交えた演奏会を開催した。 2000年10月、大原美術館70周年を記念して、1960年の大原美術館30周年コンサートと同じ奏者(結成当初の「プロムジカ弦楽四重奏団」メンバー)・同じ曲目で再現された。本館2階のメーンギャラリーで、ベートーヴェン弦楽四重奏曲「ラズモフスキー第1番」、黛敏郎「文楽」、矢代秋雄「ピアノ・ソナタ」が300人の聴衆を前にして演奏された。 2002年10月、東京・四ツ谷の紀尾井ホールにて開催された「グレート・マスターズ」コンサートに参加。日本のクラシック草創期を支え、今なお現役という70代から90代の演奏家11人の1人として選ばれ、バイオリニストの松本善三やピアノの寺西昭子と競演した。 2005年5月17日には、神戸国際会議場メインホールで開催された、インターナショナル チェロ コングレス イン 神戸 2005「グランドコンサート I 」に、倉田澄子、フィリップ・ミュレール、斎藤建寛、アルト・ノラス、山崎伸子、チョン・キョンファらと共に参加した。 2006年には、国分寺市本町の早稲田実業学校に完成した「日本の宇宙開発発祥の地」の記念碑の落成式で、記念演奏会を開催した。ペンシルロケットを開発した糸川英夫教授に月2回約50年間に亘ってチェロを教えたのが松下修也である所以で依頼されたものであった(当時77歳)。娘の松下修子もチェロ奏者であり、ときおり親子で競演している。
※この「演奏家として」の解説は、「松下修也」の解説の一部です。
「演奏家として」を含む「松下修也」の記事については、「松下修也」の概要を参照ください。
演奏家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 00:36 UTC 版)
ソロ・ヴァイオリニストとして知られるヨアヒムであるが、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に1848年から1850年まで2年間在籍し、同楽団の首席奏者で構成されるゲヴァントハウス弦楽四重奏団で第2ヴァイオリンも担当するなど、幅広く演奏活動を行った。 ソリストとしては、バッハからベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(この曲がスタンダード曲になるにはヨアヒムの大きな貢献があった)を経て、年下の同時代人たち(その多くは彼の個人的な知人であった)の作品に至る幅広いレパートリーを演奏した。 これらの演奏に加え、ドヴォルザーク、ロベルト・シューマン、ブルッフからヴァイオリン協奏曲の献呈も受けている。ただし、ドヴォルザークの協奏曲とシューマンの協奏曲を演奏することはなかった。ブルッフの協奏曲第1番も初演は別の奏者が担当した。 ヨアヒムはブラームスと特別に密接な協力関係にあり、ブラームスがヴァイオリン協奏曲を作曲した時は、技術上の助言を行なっている。この協奏曲は1879年1月1日、ヨアヒムの独奏で初演され、彼に献呈された(ただし公式に演奏したのは6回だけであった)。ブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲の初演では、独奏ヴァイオリンを演奏し(この曲は離婚問題による仲違いの後、友情修復のために作曲された)、交響曲第1番のイギリスでの初演を指揮した。 ヨアヒムはグラモフォン社に5枚(片面12吋)のレコードを録音している。LPやCDにも復刻されている。録音は1903年であったので、機械式録音であるので、LPやCDでもスクラッチノイズは避けられない。しかしそれを持っても貴重な演奏であり、オリジナルの機械式録音のSPレコードは、高額な値段で取引されている。
※この「演奏家として」の解説は、「ヨーゼフ・ヨアヒム」の解説の一部です。
「演奏家として」を含む「ヨーゼフ・ヨアヒム」の記事については、「ヨーゼフ・ヨアヒム」の概要を参照ください。
演奏家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 15:49 UTC 版)
プロのユーフォニアム奏者として活動し、アマチュア演奏家としてはトロンボーンも担当している。1993年4月のヨハン・デ・メイの来日公演で首席トロンボーンを務めた。2004年11月から2014年4月までBREEZE BRASS BANDで首席ソロユーフォニアムに就任していた。過去にデイヴィッド・チャイルズやスティーブン・ミードなどの演奏家とデュエット競演した実績を持つ。2020年8月に英国式ブラスバンド「Frontier Brass OSAKA」を創団し、その主催を務めている。
※この「演奏家として」の解説は、「遊歩新夢」の解説の一部です。
「演奏家として」を含む「遊歩新夢」の記事については、「遊歩新夢」の概要を参照ください。
演奏家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 00:23 UTC 版)
「ヨハネス・フリッチュ」の記事における「演奏家として」の解説
すぐれたヴィオラ奏者としても知られていた。若い時期からケルン市に籍を置くオーケストラのエキストラにしばしば呼ばれて参加していたが、1960年代中頃から、当時センセーショナルな存在だったシュトックハウゼンの作品の演奏に重用されたことで演奏音楽家としての世界的な知名度を得た。1969年11月15日20時からボン市のベートーヴェン・ホールで12時間にわたって行われたコンサート・イベント「現代音楽の日」に際して、シュトックハウゼンから主催者への書簡にはピアニストのアロイス・コンタルスキーなど10名の楽器奏者それぞれの契約書を、エレキ・ヴィオラの奏者として出演するフリッチュにまとめて送付するように書かれていることなどからも、後にケルン楽派と呼ばれるようになる一連の音楽家の中でのフリッチュの存在感がうかがえる。 また、ヴァイオリンを学習中の10代からジャズの演奏をするようになり、フィードバック・スタジオ設立後の1970年代にはヴィオラ奏者として積極的にジャズ の演奏に参加した。トロンボーン奏者アルベルト・マンゲルスドルフやトランペット奏者マンフレート・ショーフといったフリー・ジャズの重鎮とも共演している。
※この「演奏家として」の解説は、「ヨハネス・フリッチュ」の解説の一部です。
「演奏家として」を含む「ヨハネス・フリッチュ」の記事については、「ヨハネス・フリッチュ」の概要を参照ください。
演奏家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 09:22 UTC 版)
「ラファエレ・カラーチェ」の記事における「演奏家として」の解説
楽器製作者アントニオ・カラーチェ(Antonio Calace、1828年 - 1876年)を父としてナポリに生まれる。早くから音楽家になるための訓練を受け、すぐにマンドリンの可能性を見出しマンドリン奏者となる。ナポリの王立音楽院でヴァイオリンと作曲を学び、後に作曲科を卒業したカラーチェは、音楽におけるマンドリンの地位を高め完全なものにしようと活動するようになる。そのために彼はナポリ型マンドリンとリュート・カンタービレを携えてヨーロッパや日本へ遠征し、数え切れないほど多くのコンサートを行った。このリュート・カンタービレは19世紀末にナポリの著名な弦楽器製作者の一族ヴィナッチャ家(イタリア語版)が考案したものだが、カラーチェ自身が改良を加えて完成させたといわれている。また、カラーチェはLP盤レコードの録音を3点遺しており、そこではマンドリンのヴィルトゥオーゾ、またリュート・カンタービレの比類なき奏者としての卓越した演奏を実際に聴くことが出来る。
※この「演奏家として」の解説は、「ラファエレ・カラーチェ」の解説の一部です。
「演奏家として」を含む「ラファエレ・カラーチェ」の記事については、「ラファエレ・カラーチェ」の概要を参照ください。
演奏家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/12 16:06 UTC 版)
「チャールズ・ナイディック」の記事における「演奏家として」の解説
独特の柔らかくのびやかな音色で、ロマン派時代の楽曲や自身が作曲した作品、アメリカ人作曲家の作品、ヴァイオリン曲をクラリネット用に編曲したレパートリーを多く扱う。テクニシャンであり、また非常に研究熱心で、ひとつの音に対し運指を10種類使い分けることもある。 また、クラリネットの原型となる古楽器(ピリオド楽器)の演奏も行い、ブラームスの時代に存在したクラリネット(のレプリカ)を使用してブラームスのソナタを演奏することなどもある。 日本で演奏会を開くときは妻の文子が解説を行う。
※この「演奏家として」の解説は、「チャールズ・ナイディック」の解説の一部です。
「演奏家として」を含む「チャールズ・ナイディック」の記事については、「チャールズ・ナイディック」の概要を参照ください。
演奏家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 04:54 UTC 版)
「フェリックス・メンデルスゾーン」の記事における「演奏家として」の解説
メンデルスゾーンは生前、ピアノ、オルガンをともにこなす鍵盤楽器奏者として名声を得ていた。彼の死亡記事の一つにはこうある。 我々は真っ先に彼の、驚くべきしなやかさを持ち、急速で、力強いピアノ演奏に敬意を表する。次にくるのが、分析的でたくましいオルガン演奏であり(中略)彼がこれらの楽器で示した偉業は、人びとの脳裏に鮮明に思い出されるのだ。 メンデルスゾーンが演奏会で取り上げたのは、自作とドイツの先達たち、ピアノではウェーバー、ベートーヴェン、オルガンではバッハの著名な作品などだった。また、彼が演奏に用いたのは、ウィーンのピアノ製作者コンラート・グラーフの楽器であった。1832年に彼は、グラーフのピアノを購入してベルリンの実家に届けるよう、アロイス・フックスに依頼している。メンデルスゾーンはこの楽器を気に入り、自分用と弟の花嫁用との2台のピアノを、グラーフに追加注文することに決めたという。 彼は公私において、巧みな即興演奏によっても知られていた。ある時ロンドンでのこと、ソプラノのマリア・マリブランが自らのリサイタルの後にメンデルスゾーンに即興演奏を頼んだところ、彼は彼女がその日歌った全ての歌の旋律を組み込んだ曲を、その場で作り上げて披露した。その場に居合わせた音楽出版者のヴィクトール・ノヴェロはこう述べている。「私は実際にこの耳で聴いたわけだが、それでも彼がやってのけたことは不可能なことだと思えた」1837年の別の演奏会では、メンデルスゾーンはある歌手の伴奏で登場したが、シューマンはそのソプラノ歌手をそっちのけにしてこう書いている。「メンデルスゾーンは神の如く寄り添っていた」
※この「演奏家として」の解説は、「フェリックス・メンデルスゾーン」の解説の一部です。
「演奏家として」を含む「フェリックス・メンデルスゾーン」の記事については、「フェリックス・メンデルスゾーン」の概要を参照ください。
- 演奏家としてのページへのリンク