シューマン【Robert Alexander Schumann】
ロベルト・シューマン
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ロベルト・アレクサンダー・シューマン(ドイツ語: Robert Alexander Schumann, 1810年6月8日 - 1856年7月29日)は、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家[1][注釈 1]。ドイツ語発音: [ˈroːbɛrt][3]に基づきローベルト・シューマンと表記されることもある。
注釈
- ^ 日本の作曲家、池辺晋一郎はシューマンをロマン派時代の最もロマン的な作曲家としている[2]。
- ^ 日本の音楽学者、前田昭雄(1935年 - )はヨハンナの母(シューマンの祖母)がドイツの文豪ゴットホルト・エフライム・レッシング(1729-1781)の家から出ており、シューマンの文学的素養と才能は父母双方から受け継いだと述べている[13]。
- ^ この幼い時に母親の元を離れて育ったことが、後の精神的な不安定さのきっかけとなったと指摘する学者もいる[16]。
- ^ 後年、1851年11月にモシェレスからチェロソナタを献呈され、その返礼の手紙にシューマンは少年時代に接したモシェレスの演奏会のプログラムを30年以上経っても大事に持っていることを述べている[18]。
- ^ ウォーカーによれば、エミーリエの自殺は幼いころからの皮膚病による憂鬱症のためであり、アウグストは娘を亡くした衝撃から立ち直れなかった。この事件はシューマンの性格に終生影響を残し、彼は死や葬式などについて考えることすらできなくなったとする[24]。
- ^ なお、日本の音楽評論家、門馬直美(1924年 - 2001年)は郵便局長ヨハン・ゲオルク・シュレーゲルの家で催される室内楽の夕べにおいて、シューマンがプロイセン王子ルイ・フェルディナント(1772年 - 1806年)とモーツァルトの四重奏曲に親しんだとするが、年代が合わない。
- ^ 門馬直美は1826年の姉と父の死もシューマンのジャン・パウルへの傾倒に関係があるとしている。
- ^ 父親の遺産のうちシューマンの受領分は、資本金の利息から年200ターラー(1ターラーは現在のおよそ300円)および、試験などのたびに100ターラーが支給されるというものだった[33]。
- ^ 前田は、加えてアグネス・カールスに対する強い慕情のための「前方への逃走」の意味もあったとしている[32]。
- ^ なお、ウォーカーはエルネスティーネがヴィーク家に滞在していたのは1834年6月から1835年1月までとしている[74]。
- ^ ASCHの文字はシューマンの名前にも含まれている[74]。
- ^ なお、ブリオンは、『謝肉祭』においてシューマンがエルネスティーネを象徴するエストレリャに「コン・アフェット(感情を込めて)」と指定しているのに対し、クララを象徴するキアリーナにはアパッショナート(情熱的に)、コン・モルタ・アニマ(大いに心を込めて)と指定しており、彼のうちにクララに対する情熱の芽が育ち始めていたことがわかる、としている[73]。
- ^ オルタイルによると、クララのドレスデン行きは演奏旅行だったとしている[79]。
- ^ オルタイルは、このときクララが弾いたのは『交響的練習曲』だとしている[82]。
- ^ ウォーカーによれば、ヴィークにとってクララは娘以上の存在であり、手塩にかけた自慢の創造物、生涯を賭けた作品だったとしている[76]。
- ^ シューマンは1840年にシャミッソーの詩による歌曲集『女の愛と生涯』を作曲している。
- ^ のちにこのペンで交響曲第1番「春」が書かれることになった[86]。
- ^ ブリオンは「法学博士」としているが、ここでは門馬に従った。
- ^ 門馬は120曲以上、前田は130曲以上、ウォーカーは140曲以上としているが、ここではもっとも少ない門馬に従った[92][85][77]。
- ^ シューマンの思想が反映されていると見られる作品に『4つの行進曲』(作品76)や男声合唱のための『自由の歌』(Wo0 15)などがある[110]。
- ^ F.A.E.ソナタがヨアヒムとクララによって演奏された翌日からわずか3日間でシューマンは自分が担当しなかった第1楽章と第3楽章を作曲して第3番のヴァイオリンソナタとした[144][142]。
- ^ 前田は、「天使の主題」とヴァイオリン協奏曲第2楽章の主題は、『子供のための歌のアルバム』(作品79)の第20曲「春の訪れ」にすでに現れており、その部分のホフマン・フォン・ファラースレーベンの詩は「この暗い日々のあとで、野原はなんと明るいことか―」であるとする[147]。
- ^ 6月11日にフェリックスを出産した[148]。
- ^ クララによれば、シューマンが死んだのは午後5時で、彼女が30分ほど目を離した間だったという[151]。
- ^ クララの日記によればロベルトの最期の様子は次のとおりである。Nur Einmal verstand ich "meine", gewiß wollte er "Clara" sagen, denn er sah mich freundlich dabei an, dann noch einmal "ich kenne"--"Dich" wahrscheinlich. [156]。
- ^ ウォーカーによる。門馬は「市長の一行がともに歩いた」としているが、市長の名前がグリルパルツァーかどうか不明。あるいはフランツ・グリルパルツァー(1791年 - 1872年)か?[151]
- ^ Vittorio Amedeo Radicati di Marmorito, 1831 - 1923
- ^ 出版社に宛てたブラームスの手紙には、「私はここでシューマンの伯爵夫人のために花嫁の歌を書いた。―しかし、恨みを持ってそれを書いた。―立腹して書いた!」と述べている[158]。
- ^ ウォーカーは1883年、ブリオンは1873年としており、ここではウォーカーに従った。あるいは両者は別々のものである可能性がある。
- ^ 縛った指についてウォーカーは「第3指」、ブリオンは「第4指」とそれぞれ述べているが、ここではウォーカーに従った。
- ^ ニークスは、クララやドルンらシューマンと関係の深かった人物へのインタビュー記録を元に1924年に『ロベルト・シューマン、伝記への補足と改訂』を著した[164]。
- ^ 前田は、シューマンの中後期の作品理解、とくに大作への理解が遅れており、判断と評価の適正な基盤はまだ整っていないとしている[167]。
- ^ これはショパンの『ラ・チ・ダレム変奏曲』(作品2)についての論文だった[69]。
- ^ ウォーカーは、シューマンとヴィークが音楽的に見解の一致を見ることはめったになかったことから前者には無理があるとし、後者の名前の結合は興味深いとしている[68]。
- ^ 速度や発想標語に母国語を使うようになったのはシューマンからである[218]。
- ^ デーリングはブレンデルが編集を引き継いだのはシューマンからとしているが、ここではウォーカーに従ってロレンツとした[104]。
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ロベルト・シューマン
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「僕のショパン」の記事における「ロベルト・シューマン」の解説
元祖オタクな作曲家兼音楽評論家。架空の脳内同盟『ダヴィッド同盟』を結成。
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固有名詞の分類
ロマン派の作曲家 | フランチェスコ・パオロ・トスティ フランツ・ラハナー ロベルト・シューマン アドルフ・ブラン テオドール・キルヒナー |
ドイツの作曲家 | エルンスト・ゴットリープ・バロン フランツ・ラハナー ロベルト・シューマン モーリッツ・エッゲルト ハインツ・フリードリヒ・ハルティヒ |
オペラ作曲家 | ウンベルト・ジョルダーノ フランツ・ラハナー ロベルト・シューマン ヘルマン・ゲッツ ルイージ・マンチネッリ |
ドイツの音楽評論家 | フーゴー・ライヒテントリット ワルター・ニーマン ロベルト・シューマン テオドール・アドルノ クラウス・プリングスハイム |
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