ザクセン王国
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- ザクセン王国
- Königreich Sachsen
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← 1806年 - 1918年 →
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(国旗) (国章) - 国の標語: 天意の記憶 (Providentiae Memor)
- 国歌: Gott segne Sachsenland
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ドイツ帝国内におけるザクセン王国 -
公用語 標準ドイツ語、上部ザクセン語 首都 ドレスデン - ザクセン国王
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1806年 - 1827年 フリードリヒ・アウグスト1世 1904年 - 1918年 フリードリヒ・アウグスト3世 - 大臣主席/首相
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1831年 - 1843年 ベルンハルト・フォン・リンデナウ 1918年 - 1918年 ルドルフ・ハインツェ - 変遷
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ポズナニ条約 1806年12月11日 王国へ昇格 1806年12月20日 ティルジット条約 1807年7月9日 ウィーン議定書 1815年6月9日 ドイツ連邦加盟 1866年 ドイツ統一 1871年 消滅 1918年11月13日
ザクセン王国(ザクセンおうこく、独: Königreich Sachsen)は、1806年から1918年までドイツに存在した王国。前身はザクセン選帝侯領。1918年のヴァイマル共和国の樹立によって消滅した。首都はドレスデンであった。最終的な領域は現在のザクセン州の領域とほぼ同じである。
歴史
アウステルリッツの戦いでオーストリアが敗北したことで、神聖ローマ帝国は1806年8月にナポレオン1世によって解体された。同年12月ザクセンは公国から王国に昇格し、ザクセン公フリードリヒ・アウグスト3世はザクセン国王フリードリヒ・アウグスト1世となった。その後フリードリヒ・アウグストはティルジットの和約によって成立したワルシャワ公国の公も兼ねることとなった。1815年のウィーン会議の結果、ワルシャワ公国は消滅した。ザクセン王国はドイツ連邦に加入したが、北半分の領土をプロイセン王国に割譲させられることになった(割譲された領土はプロイセンのザクセン州となった)。現在のザクセン州は、大部分がこの時に残った領土に相当する。
1848年革命の際には、ライプツィヒを中心として自由化運動が広まった。こうした中で成立したブラウン内閣は、言論・出版の自由を保障し、封建的諸特権の廃止を実現させた。また、ザクセン王国内における制限選挙を廃止、21歳以上の男性に普通選挙権を認めた。同年末の議会選挙ではスラヴ系少数民族であるソルブ人協会の代表も3人選出された。しかしこうした改革の潮流は、オーストリアやプロイセンでも反動化が進む中で鎮圧されていった。
1866年の普墺戦争では中立をとろうとしたが、結局オーストリア側についた。そのため、プロイセン軍による占領を受けて降伏を余儀なくされた。ザクセン王国はハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国、ナッサウ公国、フランクフルト・アム・マインなどのようにプロイセンに併合されることはなかったが、形式上の自立のみを残してプロイセンに従属し、北ドイツ連邦に加入した。さらに1871年の普仏戦争で北ドイツ連邦はドイツ帝国となり、ザクセン王ヨハンは、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に忠誠を誓った。第一次世界大戦中の1918年11月3日、キール軍港の反乱をきっかけにドイツ革命が勃発し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は退位を余儀なくされた。ドイツ帝国は崩壊してヴァイマル共和政が成立、最後のザクセン王フリードリヒ・アウグスト3世もまた1918年11月13日に退位に追い込まれ、ザクセン自由州が成立した。
君主

歴代国王
- フリードリヒ・アウグスト1世 (1806年 - 1827年) - ワルシャワ公(1807年 - 1813年)
- アントン (1827年 - 1836年)
- フリードリヒ・アウグスト2世 (1836年 - 1854年)
- ヨハン (1854年 - 1873年)
- アルブレヒト (1873年 - 1902年)
- ゲオルク (1902年 - 1904年)
- フリードリヒ・アウグスト3世 (1904年 - 1918年) - 1918年退位、ザクセンは共和政へ移行。
系図
(ザクセン選帝侯) フリードリヒ・クリスティアン |
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フリードリヒ・アウグスト1世 | アントン | マクシミリアン |
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フリードリヒ・アウグスト2世 | ヨハン |
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アルベルト | ゲオルク |
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フリードリヒ・アウグスト3世 |
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参考文献
- G.シュミット『近代ザクセン国制史』松尾展成訳、九州大学出版会。
関連項目
ザクセン王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/14 10:23 UTC 版)
「ラントヴェーア (軍事)」の記事における「ザクセン王国」の解説
ザクセン軍 (Royal Saxon Army) では1814年から1815年にかけて、義勇ザクセン軍旗団 (de:Banner der freiwilligen Sachsen) が創設され、ヘッセンやアンハルト (Anhalt) のラントヴェーア同様、ラントヴェーア十字章を身に帯びた。しかし、これは義勇部隊の一つである。この他に、プロイセン軍を手本としたラントヴェーアも創設された。また1814年から1815年にかけて、ザクセン王国臨時歩兵旅団(Königlich sächsische provisorische Infanterie-Brigade)が存在し、ライン同盟以来の黄色い折り返し (de:Rabatte) が付いた白い制服を着用して、プロイセン軍の指揮に従った。さらに「ザクセンのラントヴェーア(sächsische Landwehr)」も存在した。
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