ザクセン朝(ズップリンブルク朝)
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「神聖ローマ皇帝一覧」の記事における「ザクセン朝(ズップリンブルク朝)」の解説
このザクセン朝は、オットー朝とは無関係で、国王に選出されたロタール・フォン・ズップリンブルクがザクセン大公であったことに由来する。彼の家名は記録上、ズップリンブルク家、ズップリンゲンブルク家、ズップリンゲン家の3種がある。 肖像画名前在位(生没年)国王選出皇帝戴冠備考印章 ロタール3世 1125年 - 1137年(1075年 - 1137年) 1125年 1133年 ロタール2世と呼ばれることもある。対立王:コンラート3世(王位:1127年 - 1135年)
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ザクセン朝
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肖像人名背景即位退位 オットーネ1世 東フランク王。ザクセン朝を東フランク王国に打ちたてた後、ベレンガーリオ親子を滅ぼしてイタリア王国にもザクセン人の王家を成立させる。後に皇帝を名乗る。 962年2月2日 973年5月7日 オットーネ2世 ローマ皇帝。オットーネ1世の子 980年10月 983年12月7日 オットーネ3世 ローマ皇帝。オットーネ2世の子、オットーネ1世の孫。子を持たずに病没する。 996年2月 1002年1月23日 肖像人名背景即位退位 アルドゥイーノ1世 ベレンガーリオ2世の末裔。オットーネ3世死後、諸侯の支持を得てイタリア王位に即位する。後にエンリーコ2世に敗れて退位した。 1002年 1014年 肖像人名背景即位退位 エンリーコ2世 ローマ皇帝。オットーネ3世の従兄弟。子を持たずに病没し、彼の死でザクセン王家は断絶した。 1004年2月14日 1024年7月13日
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ザクセン朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 01:06 UTC 版)
ここでのイタリアは現在のそれとは国土の形も座標も異なり、おおよそモナコからスロベニアに横たわる北イタリア圏である。当時、ファーティマ朝の侵攻を迎撃する諸侯と、コムーネと呼ばれる都市国家に分裂していた。 イタリア政策とは、もともと東フランク王国であった神聖ローマ帝国が、中フランク王国であったイタリア王国に勢力を伸ばそうとするものである。中フランクへ執着するわけは、結果論から概ね水運である。962年、初代皇帝オットー1世の戴冠式はオランダ・ベルギー・ドイツの狭間にあるアーヘン大聖堂で挙行された。そしてライン川が国内河川となった。 イタリア政策は戴冠前から行われていた。ベレンガーリオ1世が西ローマ帝国の皇帝であったころから、マジャル人がアウクスブルクを通ってリグリア海沿岸地域とプロヴァンスへ侵攻していた。オリア地方(ドーリア家発祥地)のArduin Glaberが支援したベレンガーリオ2世はロンバルディアの鉄王冠を得て、ジェノヴァ侯国・西リグリア侯国・トリノ侯国という3つの辺境伯領を創設した。そこへ951年オットー1世がロタール2世の寡婦アーデルハイトから要請があったことを理由に遠征してきた。オットー1世はレヒフェルトの戦いで勝利し、マジャル人の北イタリア侵攻を食い止めてから、再度961年イタリアに遠征しベレンガーリオ2世を廃位した。 オストマルクを回復した972年、次代オットー2世がテオファヌと結婚し東ローマ帝国と関係をもった。オットー3世の治世、988年ロシアのウラジーミル1世が東ローマ皇妹と結婚した。同年、東ローマは修道院の新設と修道院への土地寄進を解禁しているが、ロシア正教会に権益をもつ意図があった。オットー3世のイタリア政策はローマ帝国のように、キリスト教で結ばれる地中海・黒海の水運を握る意味があった。ハインリヒ2世が行った帝国教会政策の目的は一般に諸侯の統制と解されている。しかし多様な財源を貢いで人材を教会へねじこむ手口は、時期・態様・目的がロシアと共通した。
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