東フランクとは? わかりやすく解説

東フランク(ドイツ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 13:27 UTC 版)

フランク王国」の記事における「東フランク(ドイツ)」の解説

詳細は「東フランク王国」を参照 ドイツ人王と称せられるルートヴィヒ2世治世840年 - 876年)から、アルヌルフが死ぬ899年までの期間、ごく短期間除き東フランクではカロリング家1人の王による統治持続した。その領域内には多数部族民族居住していたが、王家親族関係築いた聖俗貴族王家委託受けて統治する複数分国からなる国家へと成長していた。その領域後世に「ドイツ」と呼ばれる地域にほぼ合致し単一の「ドイツ民族への共属意識もこの時期芽生えることから、歴史学上この王国は東フランク=初期ドイツ王国呼ばれるアルヌルフ教皇庁の強い求めに応じてイタリアへ派兵し896年にはローマ教皇フォルモススによって皇帝戴冠された。しかしその主要な関心西フランク王位の拒否からもわかる通り、東フランク内の分国対す統制力維持にあり、基本方針としてはイタリア対し不介入臨んだ。彼は将来備え嫡出子優先継承制度整えたが、後継者となったルートヴィヒ4世900年即位したとき7歳であり、王家親族による合議運営されるようになった911年にこのルートヴィヒ4世死去すると、カロリング王家男系断絶した西フランク王シャルル3世擁立目指す動き不発終わりコンラート家コンラート1世国王推戴された。

※この「東フランク(ドイツ)」の解説は、「フランク王国」の解説の一部です。
「東フランク(ドイツ)」を含む「フランク王国」の記事については、「フランク王国」の概要を参照ください。

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