東ピレネー戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/11 14:01 UTC 版)
戦争が勃発すると、スペイン王カルロス4世はアントニオ・リカルドスを東ピレネーのカタロニア軍の司令官に任じた。リカルドスはサルダーニャに侵攻し、1793年4月17日にサン=ローラン=ド=セルダンを占領した。さらに3日後、彼はセレでフランス軍を破った。ルシヨンを担当していたフランス軍司令官マチュー・アンリ・マルシャン・ド・ラ・ウリエールは、自暴自棄になって自殺した。4月30日、フランス政府はピレネー軍を東部ピレネー軍と西部ピレネー軍に分割した。 1793年5月19日、リカルドスはマス・デウの戦いでルイ=シャルル・ド・フレール率いる東部ピレネー軍を破り、さらに23日にはベルガルド砦を包囲した。このベルガルド包囲戦は、翌6月17日にフランス守備隊が降伏して終わった。7月17日のペルピニャンの戦いではフランス軍が勝利したが、ここでも被った損害は甚大だった。8月28日、プッチサルダーで、リュック・シメオン・オーギュスト・ダゴベル率いるフランス軍がマヌエル・ラ・ペーニャ率いるスペイン軍を破った。 9月、リカルドスはヘロニモ・ヒロン=モクテスマとJuan de Courtenにそれぞれ部隊を与え、ペルピニャンの砦の奪取を命じた。しかし17日のペレストルトの戦いでは、ユスターシュ・シャルル・ドゥスト率いるフランス軍が勝利を挙げた。これがルシヨンにおけるスペイン軍の最深到達点となった。 5日後、リカルドスはトルイヤの戦いでダゴベルを破り、テック峡谷がフランスに奪回されるのを防いだ。また10月3日にはル・ブルでドゥストをも破った。10月13日から15日のテックの戦い(プラ・デル・レイの戦い)では、スペイン軍はルイ・マリー・テュロー率いるフランス軍の強襲を撃退した。さらにリカルドスのもとにはジョアン・フォルベス率いる5000人のポルトガル軍部隊が加勢し、12月7日のヴィルロング=デル=モンの戦いで再びドゥストを破った。20日から23日にかけて行われたコリウールの戦いでは、グレゴリオ・ガーシア・デ・ラ・クエスタ率いるスペイン軍がコリウールの港とポール=ヴァンドルをフランスから奪取した。 しかし1794年3月13日にリカルドスが病死したのを境に、状況はフランス優位に傾いた。カタロニア軍司令官の後任にはアレハンドロ・オレイリーが任命されたが、彼も任地に赴く途上、リカルドスの死の僅か10日後の3月23日に病没したので、ルイス・フィルミン・デ・カルバハルが司令官となった。一方、フランス側でも新たな東部ピレネー軍の司令官として、先のトゥーロン攻囲戦の指揮を執った名将ジャック・フランソワ・デュゴミエが着任した。4月29日から5月1日にかけてのル・ブルの戦いで、デュゴミエはカルバハル率いるスペイン軍を国境の南へ追いやった。スペイン軍は大砲や荷車を放棄して逃げざるを得なかった。5月下旬、フランス軍はコリウールを奪回し、エウヘニオ・ナバロ以下7000人のスペイン守備隊が捕虜となった。防衛戦に参加していたエミグレは、スペイン軍が降伏する前に釣り船に乗って脱出した。彼らは捕虜となれば間違いなく処刑されたためである。デュゴミエは、5月5日からベルガルドを封鎖している。6月7日のラ・ジュンケラの戦いでは明確な決着がつかなかった。8月13日のサン・ロレンツ・デ・ラ・ムーガの戦いでは、ベルガルドの町を救出しようとしたスペイン軍をピエール・オージュローが撃退した。スペイン守備隊は食料が尽きた後、9月17日に降伏した。11月17日から20日にかけて、ピレネー戦争のクライマックスとなる黒山の戦いが勃発した。デュゴミエもカルバハルもここで戦死し、カトリーヌ=ドミニク・ド・ペリニョンがフランス軍の指揮を引き継いで勝利に導いた。間もなくフランス軍はフィゲラスとサン・フェラン城を落とし、9000人のスペイン兵を捕虜とした。 戦死したデュゴミエの後を引き継いだピエール・フランソワ・ソーレは、1795年2月4日にロザスを陥落させた。またペリニョンの後任として3月3日にバルテルミ・ルイ・ジョゼフ・シュレールが着任したが、彼は6月14日にフルビア川付近で行われたバスカラの戦いでホセ・デ・ウルティラ率いるスペイン・ポルトガル軍に大敗を喫した。この後フランス・スペイン両国間で和平が結ばれたが、その知らせが前線に届く前に、クエスタ率いるスペイン軍が7月26日にプッチサルダーを、27日にベルベールを再占領している。
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