東フランク王国との戦争とフォルヒハイムの和約
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「スヴァトプルク1世」の記事における「東フランク王国との戦争とフォルヒハイムの和約」の解説
まもなくスヴァトプルクが無実であることがわかり、カールマンは彼を解放した。スヴァトプルクをカロリング家に縛り付けておくため、カールマンはスヴァトプルクに、自らの庶出の孫の代父を務めさせた。そのため、このカールマンの孫、アルヌルフの子にあたる子どもは、スヴァトプルクのドイツ語名ツヴェンティボルトと名乗ることになった。 スヴァトプルクは、カールマンの軍勢を率いてモラヴィアに戻り、スラヴォミールら自分を裏切った反乱モラヴィア人たちを倒そうとした。しかし「ラスティスラフの古い都市」に到着したとき、東フランクから来て都市の外に待機していたバイエルン人たちが反乱側と通じ、スヴァトプルクを裏切った。都市をカールマンの助力により奪回したスヴァトプルクであったが、ここに至って彼はカールマンへの臣従を破棄し、城壁の中にいながら膨大な数のモラヴィア軍を召集し、城外のバイエルン軍を奇襲して破った。モラヴィア人は多数のバイエルン戦士を捕虜とし、残余を殺害し、モラヴィアからフランク人勢力を駆逐した。カールマンに派遣されていたヴィルヘルム2世とエンゲルシャルク1世も殺害され、スヴァトプルクは名実ともに大モラヴィアの支配者となった。驚いたカールマンは国中のモラヴィアの人質を集めてスヴァトプルクのもとへ送ったが、代わりに帰ってきたのは半死半生の状態のラートボトという男一人だけだった。 871年10月、東フランク王ルートヴィヒ2世はバイエルンとフランケンの軍をボヘミアに差し向けた。フランケン軍はボヘミアのある要塞に続く隘路にいたモラヴィアの一隊を奇襲した。このモラヴィア軍はボヘミアの公(ドゥクス)の娘をモラヴィアへ連れて帰る途中だった。これはモラヴィアの大貴族と結婚させるためだったと考えられている。モラヴィア軍は何とか要塞に逃げ込んだが、その際に装備を整えた644頭の馬を隘路に置き去りにした。ボヘミアの指導者とモラヴィアの大貴族が政略結婚を結ぼうとしていたとすれば、これはスヴァトプルク1世がボヘミアとの同盟を志していたことを示していると言える。 ルートヴィヒ2世はスヴァトプルク1世が重大な脅威になりつつあることに気づき、872年に多方面から軍を召集して翼包囲をかけるような形で、モラヴィア領内に多方面から侵攻した。「モラヴィアのスラヴ人」に対する第一陣は5月にレーゲンスブルクを出発したが、これに所属していたテューリンゲンやザクセンの兵たちは、一回敵と遭遇しただけで逃げ去ってしまった。第二陣はフランケンの兵で構成され、ヴュルツブルク司教アルンとフルダ修道院長シギハルトが指揮官となった。この軍はよく戦ったが大多数が戦死し、東フランクへ帰れた兵はほんの一握りしかいなかった。最後の第三陣はカールマン率いるバイエルンとカランタニアの軍で、彼らはモラヴィアの地を灰燼となし、スヴァトプルク1世の軍を「きわめてよく防備が固められた要塞」に逃げ込まざるを得なくさせた。しかしスヴァトプルク1世は速やかに大軍を召集し、ドナウ川の船を守るために残留していたレーゲンスブルク司教Emriacho指揮下のバイエルン人を攻撃した。 873年5月、教皇ヨハネス8世は行方不明になっていたメトディオスの所在探しに乗り出した。実のところメトディオスは、まだバイエルンに囚人として留め置かれていた。ヨハネス8世は厳しい言葉を連ねた書簡をカールマンやバイエルンの司教たちに送り、メトディオスを即刻復位させるよう命じた。またヨハネス8世は、ルートヴィヒ2世とスヴァトプルクの間で和平を結ぶよう仲介に入ったようである。ルートヴィヒ2世はイタリアのヴェローナでヨハネス8世と面会した後、フォルヒハイムという地へ赴いた。ここでフルダ年代記によれば、ルートヴィヒ2世は「スヴァトプルク1世から和平条約を求める使節を迎えた」。両者の間で結ばれた和約の詳細は不明だが、おそらくスヴァトプルク1世がルートヴィヒ2世に貢納する代わりに、ルートヴィヒ2世が大モラヴィアに対するあらゆる敵対行動を取りやめる、という妥協策だったと考えられている。この結果、モラヴィアへの帰還を許されたメトディオスは、比較的平和な状況下で数年間活動することができた。
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