ツヴェンティボルトとは? わかりやすく解説

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ツヴェンティボルト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/12 23:45 UTC 版)

ツヴェンティボルト
Zwentibold
ロタリンギア国王
在位 895年 - 900年

出生 870/1年
死去 900年8月13日
埋葬 ロタリンギア王国、スステレン
ロタリンギア王国、スステレン修道院
配偶者 オーダ・フォン・ザクセン
子女 ベネデッタ
ツェツィリーア
レーレンダ
家名 カロリング家
王朝 カロリング朝
父親 アルヌルフ
宗教 キリスト教カトリック教会
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ツヴェンティボルトドイツ語: Zwentibold870年または871年 - 900年8月13日)は、カロリング朝ロタリンギア王(在位:895年 - 900年)。ツヴェンティポルト(Zwentipold)とも呼ばれる。

東フランク王国の王アルヌルフの庶長子で、生母の名は不詳。ルートヴィヒ4世の異母兄にあたる。

概要

バート・ミュンステライフェルドイツ語版にあるツヴェンティボルトの石像

888年、父のアルヌルフのイタリア遠征に随行し、フリウーリ辺境伯ベレンガルがトレントで出迎えて、臣従を誓った。ベレンガルは、西フランク王国遠征に失敗して、イタリアに戻ったローマ近郊のスポレート公グイードを撃破したばかりであった。アルヌルフはその功績を認めて、ベレンガルをイタリア王に任命した。

889年にグイードは勢いを盛り返して、ベレンガルを攻撃した。そのため、ベレンガルはトレビアでグイードに撃破されて、命からがらにフリウーリに帰還した。代わってグイードがイタリア王と称して、891年西ローマ皇帝と称した。これに危惧したアルヌルフは子のツヴェンティボルトに命じて、ベレンガルと連合させてグイードを討伐させた。894年に、連合軍はベルガモの戦いでグイードの軍勢を撃退し、ミラノパヴィーアを奪った。間もなくグイードは病死し、本隊のアルヌルフの軍勢はそのまま南下して、895年に、アルヌルフは西ローマ皇帝となった。ツヴェンティボルトはこの功績で、父からロタリンギア王を譲位された。

在地の大貴族レニエ家レニエ1世と対立、レニエ1世は西フランク王シャルル3世と通じた。その結果、899年のサン・ゴアール条約により、西ロタリンギアは西フランク王国のものとなった。

900年にツヴェンティボルトは病死した。29歳あるいは30歳であった。末弟のルートヴィヒ4世が後を継いだ。

家系

897年にザクセン公オットー1世の娘のオーダ875年/880年 - 949年12月2日?/952年7月2日?)と結婚。『Gesta episcoporum Leodiensium』(en)によると、ツヴェンティボルトには以下の3人の娘がいたとされる。

  • ベネデッタ(898年 - ?) - スステレン修道院の修道女
  • ツェツィリーア(899年 - ?) - スステレン修道院の修道女
  • レーレンダ(900年 - ?)

関連項目




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