オットー1世 (ザクセン公)とは? わかりやすく解説

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オットー1世 (ザクセン公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 00:57 UTC 版)

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オットー1世
Otto I.
ザクセン公
在位 880年 - 912年

出生 851年
死去 912年11月30日
埋葬 ガンダースハイム修道院
配偶者 ハトヴィヒ・フォン・バーベンベルク
子女 タンクマール
リウドルフ
ハインリヒ1世
オーダ
家名 リウドルフィング家
父親 ザクセン公リウドルフ
母親 オーダ・フォン・ビルング
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オットー1世(Otto I., 851年頃 - 912年11月30日)は、ザクセン公(在位:880年 - 912年)。ザクセン公リウドルフの息子でブルンの弟。オットー貴顕公ないし栄光公(ドイツ語:der Erlauchte)と称される。姉リウトガルトは東フランク王ルートヴィヒ3世と結婚した。

生涯

880年に兄ブルンが死去した後、ザクセン公位を継承した[1]

877年1月16日のガンダースハイム修道院に対するルートヴィヒ3世の特許状によると、南テューリンゲン(pago Suththuringa)がオットーの所領であったという。また、897年1月28日の特許状には、オットーは辺境伯(marchio)であり、アイヒスフェルト(pago Eichesfelden)を領していたことが記されている。また、オットーは908年にはヘルスフェルト在俗修道院長の地位にあった。サクソン人歴史家コルヴァイのヴィドゥキント(en)の記述に拠れば、オットーは911年東フランク王国の王権を要求したが、受けいれられなかったという[2]。ただし、この要求が史実かどうかは疑わしいとされている[2]。また、オットーはマインツ大司教ハットーとともにコンラート1世を東フランク王に推挙したともいわれる[3]912年にオットーは亡くなり、ガンダースハイムの教会に葬られた。

子女

869年頃に、バーベンベルク家オストマルク東方辺境伯ハインリヒとイタリア王ベレンガーリオ1世の姉妹インゲルトルードの間の娘ハトヴィヒ(903年没)と結婚した。ハトヴィヒは母方からフランク王ルートヴィヒ1世の曾孫にあたる。以下の子女をもうけた。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 成瀬 他、p. 97
  2. ^ a b Reuter, p. 135
  3. ^ 瀬原、p. 62

参考文献

  • 成瀬治 他 編 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
  • コルヴァイのヴィドゥキント、三佐川亮宏 訳 『ザクセン人の事績』 知泉書館、2017年
  • A Companion to Hrotsvit of Gandersheim (fl. 960): Contextual and Interpretive Approaches ed. Phyllis R. Brown and Stephen L. Wailes, Brill, 2013.
  • Timothy Reuter, Germany in the early middle ages 800-1050, Longman, 1991.

関連項目

先代:
ブルン
ザクセン公
880年 - 912年
次代:
ハインリヒ1世

 




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