ロタリンギアとは? わかりやすく解説

ロタリンギア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/21 00:26 UTC 版)

ロタリンギア(Lotharingia)は、西ヨーロッパに短期間存在した王国である。ロタール2世が父ロタール1世中フランク国王神聖ローマ皇帝)から継承した領土の集合。名前はラテン語のLotharii Regnum(ロタールの領土)に由来する。


  1. ^ 表記はロタール2世死去年。それ以降独自の王を持たず。922年に東フランク王国領となる。


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ロタリンギア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/14 08:41 UTC 版)

ロレーヌ公国」の記事における「ロタリンギア」の解説

詳細は「ロタリンギア」を参照 ロレーヌ先行するロタリンギアは国王ロタール2世855年 - 869年治世下では フランク帝国内部での独立した王国であった。その領域元来ルートヴィヒ1世の3人の息子間で分割取り決められヴェルダン条約843年創設され中部フランク王国一部であった中部フランクロタール1世割り当てられそれ故にLotharii Regnumと呼ばれた855年ロタール1世が死ぬと更に三つ分割されロタール2世北部受け取った。その領域当時ブルゴーニュ伯領から北海南部伸びた広大な領域含んでいた。この領域フランスではロレーヌLorraine)として知られ他方ドイツでは次第ロートリンゲンLothringen)として知られるようになったアレマン語がかつてロレーヌ話されており、接尾字の-ingen正確には、比喩的な感覚では"Lotharingen"は"ロタール属す土地"と表現されるロタール2世後継者を残すことなく没したことで、その領域870年メルセン条約東フランク王国西フランク王国分割され最終的に880年リブモント条約全域東フランク王国支配下置かれた。911年の、ルートヴィヒ4世の死で東フランク王国カロリング朝絶えると、ロタリンギアは一旦は西フランク王国吸収されたが、925年東フランクハインリヒ1世によって征服された。宿敵であるユーグ大公との争いが行詰ったことにより942年西フランク王ルイ4世は全ロタリンギアの請求権放棄した

※この「ロタリンギア」の解説は、「ロレーヌ公国」の解説の一部です。
「ロタリンギア」を含む「ロレーヌ公国」の記事については、「ロレーヌ公国」の概要を参照ください。

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