司教領とは? わかりやすく解説

司教領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 17:52 UTC 版)

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赤部分がネーデルラント17州のユトレヒト司教領(695年-1528年)。

司教領(しきょうりょう、英語:Hochstift, Bishoprics)もしくは司教国は、君主(prince)の資格を有する司教である司教領主英語版が、その世俗的な権力により支配する領域を指す用語である。当該司教の教区(司教区、英語: diocese)と重なることが多い。君主が大司教であれば大司教領(Prince-Archbishopric)と呼ばれる。修道院長を君主とする修道院領も存在した。ドイツ騎士団などの騎士団領も、聖職者(騎士団の騎士はすべて修道士である)が世俗の領主権を行使しているという意味で共通のものである。司教領の資産は教会領(Kirchengut)と言われる。

神聖ローマ帝国(HRE, Holy Roman Empire)の領域を中心に、中世ヨーロッパ十字軍国家に多数存在したが、2012年現在存在しない。ただし、ローマ教皇元首バチカン市国と、ウルヘル司教が共同元首のアンドラ公国が存在する。

司教領の一例

1780年の司教領と教区。
現オランダ
現ベルギー
現スイス
現フランス

関連項目

外部リンク


司教領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 00:09 UTC 版)

リエージュ司教領」の記事における「司教領」の解説

リエージュ教会支配領域は、寄進されたり、自ら獲得することによって増加していった。ノジェ(Notger、972年 - 1008年)は、司教地位ついている期間に、ユイ伯領に対す世俗的な支配権得て、彼自身諸侯となった。この地位フランス革命まで彼の後継者により引き継がれた。リエージュ司教領は、理論的に神聖ローマ帝国属していたものの、800年近くにもわたって事実上独立維持した。この事実上独立大きく寄与したのはリエージュ司教能力であり、彼らは、フランスとドイツの間の戦略的な位置にあることから、国際政治においていくども重要な役割担った。この司教領の創設者であるノジェは、聖ランベール大聖堂司教宮殿再建しヘラクリウス(Heraclius)により始められ聖パウロ協同教会完成させ、聖十字(Sainte-Croix)と聖ドニSaint-Denis)の2つ共同教会建設進め福音記者ヨハネ教会建設した。 この司教は、都市教区組織強化した。彼は、万霊節習慣広めた最初の1人であった。この万霊節はこの司教領で正式の祭礼とされた。しかし、ノジェの統治下で、ヘラクリウス業績引き継がれリエージュ教育制度発展した。これは、これら2人司教とワゾン(Wazon)による貢献大きい。「リエージュ1世紀上もの間、国々の中で決し到達できないほどの科学的な地位占めた。」「リエージュ学校は、実際に、その期間、文学的な点に焦点当てられていた。」バルデリック・ド・ローツ(Balderic de Looz1008年 - 1018年)、ウォルボドン(Wolbodon、1018年 - 1021年)、デュラン(Durand、1021年 - 1025年)、レジナール(Reginard、1025年 - 1038年)、ニタール(Nitard、1038年 - 1042年)、ワゾン、テオダン(Theoduin、1048年 - 075年)はノジェの遺産一生懸命維持した。これらの学校多く優秀な学者輩出しステファヌス9世とニコラウス2世の様なカトリック教会教皇送り出した司教区パリ大学にも多く博士送り出した。ギヨーム・ド・サン=ティエリー(Guillaume de Saint-Thierry)、リエージュジェラール(Gérard de Liège)およびゴドフロワ・ド・フォンテーヌ(Godfrey de Fontaines)である。リエージュアルジェAlger of Liège1055年 - 1131年)は、その時代における著名な知識人であり、リエージュ聖バルトロマイ教会助祭任命され最終的にはクリューニーの修道院退いた。 アンリ・ド・ヴェルダン(Henri de Verdun1075年 - 1091年)の治世に、戦争回避神の平和運動の強化目的として裁判所tribunal de la paix)が創設された。オトベール(Otbert、1091年 - 1119年)は国土拡大行った。彼はハインリヒ4世忠実であり、ハインリヒ4世は、彼の客人として死去した。アンリ・ド・ナミュール(Henri de Namur1119年 - 1121年)は非業の死遂げたことで、殉教者として崇拝されるようになった。アレクサンドル・フォン・ユーリヒ(1128年 - 1134年)の治世の間に、リエージュ教皇インノケンティウス2世神聖ローマ帝国皇帝ロタール3世および聖ベルナルドゥスの3人が訪れた。ルドルフ・フォン・ツェーリンゲンについては、ベギン修道会創設名を残したランベール・ル=ベーグによる説教の中で言及されている。 アルベロン1世・ド・ルーヴァン(Alberon I de Louvain)は1191年リエージュ司教選ばれた、しかし、ハインリヒ6世選挙疑惑があるという口実使い、ロタール・フォン・ホッホシュターデン(Lothar von Hochstaden)に司教位を与えた。アルベロンの選挙結果教皇により認められたが、1192年ランスにおいて3人のドイツ騎士暗殺された。皇帝がこの暗殺関与していると考えられており、この犠牲者聖人加えられた。1195年、アルベール・ド・キュイク(Albert de Cuyck、1195年 - 1200年)はリエージュ人々特権正式に認めた12世紀には、大聖堂参事会は、司教との関係において重要な位置占め、この国の歴史において重要な役割果たした上流階級下層階級の間の争いは、司教がしばしば介入したが、13世紀・14世紀通じて拡大し15世紀には最高潮達して司教都市の略奪と破壊が行われた。ロベール・ド・トゥロット(ラングル)(Robert de Thourotte (Langres)、1240年 - 1246年)の治世に、リエージュのコルニヨン(Cornillon)の修道女である聖ジュリアーヌは、神の啓示により、聖餐パン祭礼を行うことべきだと進言した。いくらかためらいがあったが、司教はこの考え採用し、特別の儀式が行われた。しかし、司教死によりこれを制度化させることは出来なかった。この制定は、リエージュドミニコ会の前修道院次長ユーグ・ド・サン=シェールHugues de Saint-Cher)が、ローマ教皇使節としてリエージュ戻ってくるまで待つことになったこの人物は、1252年ユーグはこの祭礼彼の使節権限により義務1つとした。ジャン・ド・トロワ(Jean de Troyes)はリエージュでの副司祭の後、教皇選ばれウルバヌス4世)、全教会に聖体の祝日儀式を行うことを奨励したリエージュにおける他の副司祭は、グレゴリウス10世の名の教皇の元で、地位ふさわしくないハインリヒ・フォン・ゲルデルン(Heinrich von Geldern、1247年 - 1274年)を退位させた。アドルフ2世・ド・ラ・マルク(Adolphe II de La Marck、1313年 - 1344年)の治世1316年署名されたフェクセ和平条約により、司教とその臣民の関係が調整された。それにもかかわらず内輪もめ継続し、アルノー・ファン・ホルン(Arnould van Horn1378年 - 1389年司教が、国民政党勝利により選ばれた。1366年ルーン伯領は、現在のリンブルフ州大部分を含む司教領に併合された。ルイ・ド・ブルボンLouis de Bourbon1456年 - 1482年)は、司教領の獲得狙っていたブルゴーニュ公政治的な陰謀により司教位に就いたシャルル突進公による1466年ディナン破壊1468年リエージュ破壊は司教領における民主主義優勢終結させた。 1540年代に、カール5世によりネーデルラント17州ができ、非公式にであるが司教領を支配した。エラール・ド・ラ・マルク(Érard de La Marck、1505年 - 1538年)の治世回復の期間であった。彼は見識ある芸術の保護者であった宗教改革対す抵抗行ったのも彼であり、彼の後継者もそれを引き継いだ。その宗教改革対す抵抗有名なのは、ジェラール・ド・グルスベーク(Gérard de Groesbeek、1564年 - 1580年)である。この宗教改革対す抵抗助けるために、教皇パウルス4世1559年5月12日大勅書である "Super Universi" により、低地諸国新たな司教領を設立した。この変更は、リエージュ司教領財政大きく影響及ぼしたたくさんの教区がルールモン(Roermond)、ボワ・ル・デュク(Bois-le-Duc、現在のスヘルトーヘンボス's-Hertogenbosch))、ナミュール司教領全体メヘレンアントウェルペンの司教領の一部形成するために引き抜かれた。それによりリエージュ大聖堂参事会長領は13まで減少した17世紀司教のほとんどは外国人であり、そのほとんどが複数司教区統治した。彼らの頻繁な不在は、シルー(Chiroux)とグリニュー(Grignoux)の両領地自由裁量与えることとなったが、これはマクシミリアン・ハインリヒ・フォン・バイエルン(バイエルン公アルブレヒト6世の子ケルン大司教1650年 - 1688年)の1681年勅令により停止された。18世紀中ごろフランス百科全書派考えリエージュにおいても受け入れ始められていた。フランソワ=シャルル・ド・フェルブリュック(François-Charles de Velbrück1772年 - 1784年)は、それらが広まることを奨励し、これがリエージュ革命Revolution Liégeoise)につながったセザールコンスタンタン=フランソワ・ファン・フンスブルック(César-Constantin-François de Hoensbroeck、1781年 - 1792年)の専制統治対す反対運動が、1789年リエージュ革命発展した1791年初め、この革命神聖ローマ帝国軍により鎮圧された。

※この「司教領」の解説は、「リエージュ司教領」の解説の一部です。
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