司教領
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司教領(しきょうりょう、英語:Hochstift, Bishoprics)もしくは司教国は、君主(prince)の資格を有する司教である司教領主が、その世俗的な権力により支配する領域を指す用語である。当該司教の教区(司教区、英語: diocese)と重なることが多い。君主が大司教であれば大司教領(Prince-Archbishopric)と呼ばれる。修道院長を君主とする修道院領も存在した。ドイツ騎士団などの騎士団領も、聖職者(騎士団の騎士はすべて修道士である)が世俗の領主権を行使しているという意味で共通のものである。司教領の資産は教会領(Kirchengut)と言われる。
神聖ローマ帝国(HRE, Holy Roman Empire)の領域を中心に、中世のヨーロッパや十字軍国家に多数存在したが、2012年現在存在しない。ただし、ローマ教皇が元首のバチカン市国と、ウルヘル司教が共同元首のアンドラ公国が存在する。
司教領の一例
- マインツ大司教領
- ケルン大司教領
- トリーア大司教領 - トリーア(トリーア選帝侯、ルクセンブルク家他)
- マクデブルク大司教領
- ヴュルツブルク司教領
- ハルバーシュタット司教領
- カミン司教領
- バンベルク司教領
- ミンデン司教領
- パーダーボルン司教領
- ヒルデスハイム司教領
- オスナブリュック司教領
- アウクスブルク司教領
- ミュンスター司教領
- シュパイアー司教領
- ザルツブルク大司教領
- ブレーメン大司教領
- ヴァルミア大司教領
- サーレ・レーネ司教領
- タルトゥ司教領
- リガ司教領
- 現オランダ
- 現ベルギー
- 現スイス
- 現フランス
関連項目
- 選挙君主制
- 領邦
- 神聖ローマ帝国
- ヴェストファーレン条約
- ツルナ・ゴーラ府主教領 - モンテネグロで1696年から1852年まで存在した、正教会では珍しい主教領。主教の地位はペトロヴィチ・ニェゴシュ家が独占しており、のち世俗化されてモンテネグロ公国(のちに王国)となり、ペトロヴィチ・ニェゴシュ家がそのまま世襲の君主となった。
外部リンク
司教領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 00:09 UTC 版)
リエージュの教会の支配領域は、寄進されたり、自ら獲得することによって増加していった。ノジェ(Notger、972年 - 1008年)は、司教の地位についている期間に、ユイ伯領に対する世俗的な支配権を得て、彼自身が諸侯となった。この地位はフランス革命まで彼の後継者により引き継がれた。リエージュ司教領は、理論的には神聖ローマ帝国に属していたものの、800年近くにもわたって事実上の独立を維持した。この事実上の独立に大きく寄与したのはリエージュ司教の能力であり、彼らは、フランスとドイツの間の戦略的な位置にあることから、国際政治においていくども重要な役割を担った。この司教領の創設者であるノジェは、聖ランベール大聖堂と司教の宮殿を再建し、ヘラクリウス(Heraclius)により始められた聖パウロの協同教会を完成させ、聖十字(Sainte-Croix)と聖ドニ(Saint-Denis)の2つの共同教会の建設を進め、福音記者ヨハネの教会も建設した。 この司教は、都市の教区の組織を強化した。彼は、万霊節の習慣を広めた最初の1人であった。この万霊節はこの司教領で正式の祭礼とされた。しかし、ノジェの統治下で、ヘラクリウスの業績が引き継がれ、リエージュの教育制度は発展した。これは、これら2人の司教とワゾン(Wazon)による貢献が大きい。「リエージュは1世紀以上もの間、国々の中で決して到達できないほどの科学的な地位を占めた。」「リエージュの学校は、実際に、その期間、文学的な点に焦点が当てられていた。」バルデリック・ド・ローツ(Balderic de Looz、1008年 - 1018年)、ウォルボドン(Wolbodon、1018年 - 1021年)、デュラン(Durand、1021年 - 1025年)、レジナール(Reginard、1025年 - 1038年)、ニタール(Nitard、1038年 - 1042年)、ワゾン、テオダン(Theoduin、1048年 - 075年)はノジェの遺産を一生懸命維持した。これらの学校は多くの優秀な学者を輩出し、ステファヌス9世とニコラウス2世の様なカトリック教会の教皇も送り出した。司教区はパリ大学にも多くの博士を送り出した。ギヨーム・ド・サン=ティエリー(Guillaume de Saint-Thierry)、リエージュのジェラール(Gérard de Liège)およびゴドフロワ・ド・フォンテーヌ(Godfrey de Fontaines)である。リエージュのアルジェ(Alger of Liège、1055年 - 1131年)は、その時代における著名な知識人であり、リエージュの聖バルトロマイ教会の助祭に任命され、最終的にはクリューニーの修道院へ退いた。 アンリ・ド・ヴェルダン(Henri de Verdun、1075年 - 1091年)の治世に、戦争回避と神の平和運動の強化を目的として裁判所(tribunal de la paix)が創設された。オトベール(Otbert、1091年 - 1119年)は国土の拡大を行った。彼はハインリヒ4世に忠実であり、ハインリヒ4世は、彼の客人として死去した。アンリ・ド・ナミュール(Henri de Namur、1119年 - 1121年)は非業の死を遂げたことで、殉教者として崇拝されるようになった。アレクサンドル・フォン・ユーリヒ(1128年 - 1134年)の治世の間に、リエージュに教皇インノケンティウス2世、神聖ローマ帝国皇帝ロタール3世および聖ベルナルドゥスの3人が訪れた。ルドルフ・フォン・ツェーリンゲンについては、ベギン修道会の創設で名を残したランベール・ル=ベーグによる説教の中で言及されている。 アルベロン1世・ド・ルーヴァン(Alberon I de Louvain)は1191年にリエージュ司教に選ばれた、しかし、ハインリヒ6世は選挙に疑惑があるという口実を使い、ロタール・フォン・ホッホシュターデン(Lothar von Hochstaden)に司教位を与えた。アルベロンの選挙結果は教皇により認められたが、1192年にランスにおいて3人のドイツ騎士に暗殺された。皇帝がこの暗殺に関与していると考えられており、この犠牲者は聖人に加えられた。1195年、アルベール・ド・キュイク(Albert de Cuyck、1195年 - 1200年)はリエージュの人々の特権を正式に認めた。12世紀には、大聖堂の参事会は、司教との関係において重要な位置を占め、この国の歴史において重要な役割を果たした。 上流階級と下層階級の間の争いは、司教がしばしば介入したが、13世紀・14世紀を通じて拡大し、15世紀には最高潮に達して司教都市の略奪と破壊が行われた。ロベール・ド・トゥロット(ラングル)(Robert de Thourotte (Langres)、1240年 - 1246年)の治世に、リエージュのコルニヨン(Cornillon)の修道女である聖ジュリアーヌは、神の啓示により、聖餐のパンの祭礼を行うことべきだと進言した。いくらかのためらいがあったが、司教はこの考えを採用し、特別の儀式が行われた。しかし、司教の死によりこれを制度化させることは出来なかった。この制定は、リエージュのドミニコ会の前修道院次長ユーグ・ド・サン=シェール(Hugues de Saint-Cher)が、ローマ教皇の使節としてリエージュに戻ってくるまで待つことになった。この人物は、1252年ユーグはこの祭礼を彼の使節の権限により義務の1つとした。ジャン・ド・トロワ(Jean de Troyes)はリエージュでの副司祭の後、教皇に選ばれ(ウルバヌス4世)、全教会に聖体の祝日の儀式を行うことを奨励した。リエージュにおける他の副司祭は、グレゴリウス10世の名の教皇の元で、地位にふさわしくないハインリヒ・フォン・ゲルデルン(Heinrich von Geldern、1247年 - 1274年)を退位させた。アドルフ2世・ド・ラ・マルク(Adolphe II de La Marck、1313年 - 1344年)の治世、1316年に署名されたフェクセ和平条約により、司教とその臣民の関係が調整された。それにもかかわらず、内輪もめは継続し、アルノー・ファン・ホルン(Arnould van Horn、1378年 - 1389年)司教が、国民政党の勝利により選ばれた。1366年ルーン伯領は、現在のリンブルフ州の大部分を含む司教領に併合された。ルイ・ド・ブルボン(Louis de Bourbon、1456年 - 1482年)は、司教領の獲得を狙っていたブルゴーニュ公の政治的な陰謀により司教位に就いた。シャルル突進公による1466年のディナンの破壊と1468年のリエージュの破壊は司教領における民主主義の優勢を終結させた。 1540年代に、カール5世によりネーデルラント17州ができ、非公式にであるが司教領を支配した。エラール・ド・ラ・マルク(Érard de La Marck、1505年 - 1538年)の治世は回復の期間であった。彼は見識ある芸術の保護者であった。宗教改革に対する抵抗を行ったのも彼であり、彼の後継者もそれを引き継いだ。その宗教改革に対する抵抗で有名なのは、ジェラール・ド・グルスベーク(Gérard de Groesbeek、1564年 - 1580年)である。この宗教改革に対する抵抗を助けるために、教皇パウルス4世は1559年5月12日の大勅書である "Super Universi" により、低地諸国に新たな司教領を設立した。この変更は、リエージュ司教領の財政に大きく影響を及ぼした。たくさんの教区がルールモン(Roermond)、ボワ・ル・デュク(Bois-le-Duc、現在のスヘルトーヘンボス('s-Hertogenbosch))、ナミュール司教領全体やメヘレンやアントウェルペンの司教領の一部を形成するために引き抜かれた。それによりリエージュの大聖堂参事会長領は13まで減少した。 17世紀の司教のほとんどは外国人であり、そのほとんどが複数の司教区を統治した。彼らの頻繁な不在は、シルー(Chiroux)とグリニュー(Grignoux)の両領地に自由裁量を与えることとなったが、これはマクシミリアン・ハインリヒ・フォン・バイエルン(バイエルン公アルブレヒト6世の子、ケルン大司教、1650年 - 1688年)の1681年の勅令により停止された。18世紀の中ごろ、フランスの百科全書派の考えがリエージュにおいても受け入れ始められていた。フランソワ=シャルル・ド・フェルブリュック(François-Charles de Velbrück、1772年 - 1784年)は、それらが広まることを奨励し、これがリエージュ革命(Revolution Liégeoise)につながった。セザール=コンスタンタン=フランソワ・ファン・フンスブルック(César-Constantin-François de Hoensbroeck、1781年 - 1792年)の専制統治に対する反対運動が、1789年のリエージュ革命に発展した。1791年初め、この革命は神聖ローマ帝国軍により鎮圧された。
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