和平条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:26 UTC 版)
前王の代より、東隣する国家アッシリアが急激に勢力を拡大していた。アッシリア王アダド・ニラリ1世の時代にはミタンニの旧領を併呑し、この時期にはヒッタイトの領土に迫る勢いを見せた。このため、ハットゥシリ3世は歴代王が長期にわたって継続してきたシリアでエジプトと対抗する政策を転換し、シリア方面での拡大を放棄してエジプトとの講和、さらに同盟を図った。 この結果紀元前1259年に、ヒッタイトの大王ハットゥシリ3世とエジプトのファラオ・ラムセス2世の間で、シリアにおける国境線の確定、相互不可侵、外敵に対する共同防衛を取り決める平和条約(en:Egyptian–Hittite peace treaty)が結ばれた。これは当時の平和・同盟条約としては条文が残されている数少ない実例であり、極めて重要である。正文を銀板に記し、粘土板にコピーしたものを両国が所有したが、正文を記した銀板は発見されていない。さらにハットゥシリ3世は、ラムセス2世に娘サウシュカヌを嫁がせてエジプトとの同盟強化を図った。サウシュカヌは「マアト・ホル・ネフェル・レ」というエジプト名を与えられ、ラムセスの娘を産んでいる。 ハットゥシャの遺跡からはハットゥシリによる200以上の外交文書が発見されており、活発な首脳外交を物語っている。またフラクティンにはハットゥシリとプドゥヘパの摩崖碑文が残されており、ヒッタイトにおける王妃の地位の高さを窺わせる。彼の死後、息子のトゥドハリヤが跡を継いだ。
※この「和平条約」の解説は、「ハットゥシリ3世」の解説の一部です。
「和平条約」を含む「ハットゥシリ3世」の記事については、「ハットゥシリ3世」の概要を参照ください。
和平条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/24 06:06 UTC 版)
「リトアニアの内戦 (1389年-1392年)」の記事における「和平条約」の解説
詳細は「オストルフ協定」を参照 1392年の春、ヨガイラはプウォツク司教ヘンリク・マゾヴィエツキを使節として送り、ヴィータウタスに妥協案を提示した。妥協案は、ヨガイラを上位の君主と認めることを条件に、ヴィータウタスをリトアニア大公位に就けるというものだった。ヴィータウタスは同年の夏までに騎士団から自分の引き渡した人質の大半を取り戻すと、ヨガイラの申し出を受諾した。この協定はヨガイラとの間で秘密裏に成立したものであり、ヴィータウタスが彼の本拠であるネマン川の中州に建つリッタースヴェルダー城で開いた祝宴に招かれたとき、騎士団は全く疑念を抱かなかった。賓客のほとんどが逮捕・投獄され、ヴィータウタスの軍勢は、警備の手薄になったリッタースヴェルダー、メーテンブルク、フロドナ近郊のノイガルテンといった木造の城を破壊していった。 1392年8月4日に締結されたオストルフ協定により、内戦には終止符が打たれた。ヴィータウタスは念願通りリトアニア大公位に就いたうえ世襲領トラカイ公国を取り戻し、スキルガイラは補償としてキエフ公国を与えられ、1397年にキエフで死んだ。ヴィータウタスは厳密に言えばヨガイラの封臣に過ぎなかったが、大公国ではきわめて大きな君主権を有していた。ヴィータウタスの独立君主としての地位は、1401年のヴィリニュス・ラドム合同によって法的に保障された。ヴィータウタスは1430年に死ぬまでリトアニアを統治したが、その間ヨガイラとは平和的に君主権を共有しており、二人の関係はそれぞれの父親であるアルギルダスとケーストゥティスの共同統治と重なる部分もみられる。ヴィータウタスに再び裏切られたドイツ騎士団は、リトアニアとの戦争を再開した。騎士団は、ヴィータウタスが過去に2度も割譲を約束したジェマイティヤの奪取を狙った。1398年、ヴィータウタスはサリナス条約に調印し、騎士団にジェマイティヤを割譲した。このときヴィータウタスはジョチ・ウルスに対する大規模な遠征を準備しており、大公国の西部地域を安定させておく必要があったのだった。ヴィータウタスは1399年のヴォルスクラ川の戦いでモンゴル人に大敗を喫した。ヨガイラとヴィータウタスは1410年のジャルギリスの戦いで共に戦い、ドイツ騎士団に対して最終的な勝利を手にした。
※この「和平条約」の解説は、「リトアニアの内戦 (1389年-1392年)」の解説の一部です。
「和平条約」を含む「リトアニアの内戦 (1389年-1392年)」の記事については、「リトアニアの内戦 (1389年-1392年)」の概要を参照ください。
「和平条約」の例文・使い方・用例・文例
- 和平条約のページへのリンク