カデシュの戦い
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カデシュの戦い(カデシュのたたかい、英語:Qadesh battle)は、紀元前1286年頃[注 1][注 2][1]にシリアのオロンテス川一帯で起きた、古代エジプトとヒッタイトの戦いである。史上初の公式な軍事記録に残された戦争であり、成文化された平和条約が取り交わされた史上初となる戦いであるともいわれている。
注釈
- ^ 編年の仕方によるばらつきが存在するため、以前は紀元前1285年あたりとされていたが、紀元前1274年を採る例が多くなってきている。
- ^ 紀元前1286年、シリアのカデシュでヒッタイトのハットゥシリ3世とエジプトのラムセス2世との間での戦いであった。
- ^ Ancient Discoveries: Egyptian Warfare. Event occurs at 12:00 hrs EDST, 2008-05-14. the recently produced program details current thinking of three experts on the Battle of Qadesh, and the Peace of Qadesh (signed about) 15 years later. Retrieved 2008-05-15.
出典
- ^ 大村幸弘「和平条約と粘土板が物語ること」/ 大村幸弘・永田雄三・内藤正典編著『トルコを知るための53章』明石書店 54ページ
- ^ UNESCO Memory of the World Archives
- 1 カデシュの戦いとは
- 2 カデシュの戦いの概要
- 3 戦いの経過
- 4 遺跡
カデシュの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/22 07:39 UTC 版)
詳細は「カデシュの戦い」を参照 ヒッタイトの繁栄は、主に交易路と鉱山を掌握している事に依存していた。キリキアの門(英語版)(トルコ南部のトロス山脈を抜ける山道)とメソポタミアをつなぐ生命線としてシリア北部は重要な地域であり、したがってこの地域の防衛がヒッタイトの興廃を決する言ってもよい。エジプトのファラオ、ラムセス2世の下で行われたエジプトの外征に対して、この地域をムワタリ率いるヒッタイト軍が防衛できるかどうかが早速にも試されることとなった。この戦いの結果は不確かであるが、エジプトの援軍が適時に到着した事により、ヒッタイトの完全勝利とはならなかったようである。エジプト軍はヒッタイト軍をカデシュ要塞に追い詰めたが、エジプト軍の損害も大きく、それ以上の攻城戦を戦う余力は残っていなかった。この戦いはラムセス治世の5年目(最も一般的に用いられている年代記によれば紀元前約1274年)に起こった。
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カデシュの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:20 UTC 版)
ムルシリ2世の長男として生まれ、父の跡を継いでヒッタイト王となった。祖父であり3代前の王シュッピルリウマ1世の時代から続くシリアへの拡大政策を継承した。エジプト第19王朝のファラオのセティ1世はヒッタイトの宗主権下にあったアムル王国とカデシュ王国に軍を進め、両王国を影響下に置いた。ムワタリは反撃に出てアムルを再びヒッタイトの影響下に置いたが、以後ヒッタイトとエジプトは恒常的な戦争状態に突入した。 セティ1世の死後にファラオとなったラムセス2世は再度、アムル王国の支配を目指して活発な軍事活動を行い、これを制圧した。そして紀元前1274年にムワタリとラムセス2世はオロンテス川河畔のカデシュでそれぞれ自ら軍を率いて戦った(戦闘の経過はカデシュの戦いの記事を参照)。この戦いの結果、ヒッタイトはアムル王国とカデシュ王国に対する影響力の保持に成功した。
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