クレトポリスの戦いとは? わかりやすく解説

クレトポリスの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 06:06 UTC 版)

クレトポリスの戦い
戦争ディアドコイ戦争
年月日紀元前319年
場所:クレトポリス
結果:アンティゴノスの勝利
交戦勢力
アンティゴノス アルケタス
アッタロス
指導者・指揮官
アンティゴノス アルケタス
戦力
歩兵40,000
騎兵7,000
戦象(数は不明)
歩兵16,000
騎兵900
損害
不明 不明
ディアドコイ戦争

クレトポリスの戦い(英:Battle of Kretopolis)は、ディアドコイ戦争において紀元前319年ピシディアのクレトポリスで、アンティゴノスアルケタスとの間で戦われた会戦である。

背景

オルキュニアの戦いエウメネスを下し、カッパドキアノラの砦に封じ込めて後方の憂いを取り除いたアンティゴノスはピシディアにいたペルディッカス派のアルケタスとその義理の兄弟アッタロスにその矛先を向けた。アンティゴノスはノラからの強行軍によってアルケタスらの虚を突き、防御に適した高台を占拠した。それに対してアルケタスは急いで迎撃に向かった[1]

戦い

アルケタスはアンティゴノス軍に攻撃を仕掛けたものの、撃退された。反撃に転じたアンティゴノス軍は高地を駆け下りてアルケタス軍に襲い掛かり、数で劣るアルケタス軍をパニックに陥れた。アンティゴノスは数を頼んだ翼包囲を敢行してファランクスを形成する暇も与えず敵の歩兵部隊を攻撃し、アルケタス軍は総崩れになった。アルケタス軍はアンティゴノスの降伏勧告により降伏し、アッタロス、ドキモス、ポレモンなど旧ペルディッカス派の主だった将軍はことごとく捕えられた。アンティゴノスは寛大な処置によってこの軍を自軍に吸収した[2]

その後

一方、アルケタスは僅かな手勢を率いてテルメッソスに逃れた。彼はそこの若者たちの支持を得たが、戦争に巻き込まれることを恐れた老人たちはアルケタスをアンティゴノスの許へと引き渡すべく計画した。アンティゴノスがやってくると、若者たちは迎撃のために出払い、その隙に老人たちはアルケタスを捕らえようとしたが、彼は敵に生きたたまま曳きたてられるのを拒んで自殺した[3]。彼の遺体はアンティゴノスによって3日間いたぶられ、アンティゴノスが去った後にテルメッソスの若者たちが葬儀を挙げて埋葬した[4]

  1. ^ ディオドロス, XVIII. 44
  2. ^ ibid, XVIII. 44-45
  3. ^ ibid, XVIII. 46
  4. ^ ibid, XVIII. 47

参考文献





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「クレトポリスの戦い」の関連用語

クレトポリスの戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



クレトポリスの戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのクレトポリスの戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS