アレクサンドロス死後
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「アサンドロス」の記事における「アレクサンドロス死後」の解説
紀元前323年のアレクサンドロスの死後の帝国の属領と地位の分割(バビロン会議)では、アサンドロスはカリアの太守位を得た。摂政のペルディッカスと彼に不満を持つ諸将との間で戦争が起こると、アンティパトロスによって派遣されたアサンドロスはペルディッカス派の将軍アッタロス、アルケタスと戦ったが、彼らに敗れた。ペルディッカス死後の紀元前321年に開かれたトリパラディソスの軍会でアサンドロスはこれまでの地位を維持した。 紀元前315年、小アジアでのアスクレピオドロス(カッサンドロスの将軍)、アサンドロスに対してアンティゴノスが甥のプトレマイオスを小アジアに送ると、アサンドロスはプトレマイオス1世からの援軍を受けつつプトレマイオスと戦った。 紀元前313年、アンティゴノスは自らアサンドロスに対して軍を率いて向い、降伏させた。アンティゴノスはアサンドロスに対して沿岸のギリシア都市の自由を復活させ、カリアの太守位をアンティゴノスに譲り、人質として兄弟のアガトンを差し出すという条件の講和の締結を強いた。しかし数日後アサンドロスはこの屈辱的な協定を破り、アンティゴノスの手からアガトンを取り戻そうとし、プトレマイオスとセレウコスに助力の使節を送った。アンティゴノスはアサンドロスのこの行動に憤慨し、すぐに軍を送り、アンティゴノスによってカリアは完全に征服された。この時を境にアサンドロスは歴史の表舞台から消え、その後の彼の消息は不明である。
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アレクサンドロス死後
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「ミュティレネのラオメドン」の記事における「アレクサンドロス死後」の解説
紀元前323年の王の死後、バビロンにてその家臣たちは属領と地位の分配を行い(バビロン会議)、ラオメドンは重要な地域であったシリアの太守に任じられた。その後の有力者ペルディッカスの死後(紀元前321年)開催されたトリパラディソスの軍会でもラオメドンはその地位を維持した。 しかし、ラオメドンの所領は勢力拡大を目論む隣人、エジプト太守プトレマイオスによって狙われた。プトレマイオスはラオメドンにシリアの統治権と引き換えに金を渡すことを提案したが、その提案をラオメドンは拒否した。そこでプトレマイオスはシリア侵略のために将軍ニカノルを送り、ラオメドンはニカノルに敗れて捕らえられ、エジプトに送られた。 しかし、ラオメドンは看守を買収して逃亡に成功し、カリアのアルケタスに合流した。ところがアルケタスは紀元前320年のクレトポリスの戦いでアンティゴノスに敗れ、アルケタスの派は四散した。ラオメドン自身のその後の消息は不明である。
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