アレクサンドロスの死後
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「メレアグロス (将軍)」の記事における「アレクサンドロスの死後」の解説
メレアグロスは紀元前323年のアレクサンドロスの死後に開かれた会議で実権を握ろうとし、ペルディッカスと対立した。ユスティヌスによればメレアグロスはアリダイオスかバルシネの子ヘラクレスのどちらかを王に選ぶか、代わりにロクサネの子を待つかの話し合いを諸将に提案した最初の人である。クルティウスは同時に、メレアグロスはロクサネのまだ生まれぬ子(後のアレクサンドロス4世)を王にすべきであると主張したペルディッカスと対立し、摂政として実権を握ろうとしたペルディッカスの野心に対して罵詈雑言吐いた人物として描写している。その時、アリダイオスを推す歩兵の騒ぎが起こったために会議は中止した。メレアグロスは兵士の騒ぎと不満をなだるために歩兵たちの許へ送られたが、暴徒の側に付き、歩兵たちの主張の支持を宣言した。 しかし、ほぼ全ての将軍と騎兵はペルディッカスの側についたため、事態を打開しようとしたメレアグロスはアリダイオスを抱き込み、ペルディッカスを処刑しようとしたものの、その試みは裏をかかれて失敗した。ユスティヌスによれば、ペルディッカスが自ら歩兵たちを説得して味方につけたために、クルティウスによれば、アリダイオスの求めで歩兵の側がペルディッカスに和解の使者を送ったために、ペルディッカスとメレアグロスは和解した。また、両者の不和はエウメネスによっても仲裁された。結果、王位はアリダイオスといまだ生まれぬロクサネの子が共同でつき、メレアグロスはペルディッカスと共同摂政になることが結論された。 しかしながら、この二人が長く友好関係を続けることは明らかに不可能であった。翌日、ペルディッカスは王の名の下に暴動の首謀者300人を処刑した。この時メレアグロス自身は刑の対象とはならなかったが、彼は身の危険を感じて神殿に避難したものの、そこで殺された。
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アレクサンドロスの死後
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「ネアルコス」の記事における「アレクサンドロスの死後」の解説
大王の死後の帝国の今後を決めるバビロン会議で、ネアルコスは大王と側室バルシネの子ヘラクレス(英語版)を王位につけることを提案したが、ヘラクレスは庶子であったため賛同者は出なかった。結局は帝国摂政となった大貴族ペルディッカス指導の下でアレクサンドロスの異母兄のアリダイオスがピリッポス3世として即位した。ネアルコスはこの会議でリュキアとパンヒュリアの太守に再びなった。 しかしすぐに大王の遺将達(ディアドコイ)の間での抗争が起こり(ディアドコイ戦争)、ネアルコスは当初ペルディッカスに属したが、ペルディッカスの死後の紀元前321年に開催されたトリパラディソスの軍会でネアルコスの所領はアンティゴノスの手に渡り(領土変遷については諸説あり)、彼自身はアンティゴノスの部将となった。彼が最後に歴史の表舞台に立ったのは紀元前312年にアンティゴノスの子デメトリオスの相談役としての従軍であり、それ以降彼がどうなったかは知られていない。
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アレクサンドロスの死後
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「ナウクラティスのクレオメネス」の記事における「アレクサンドロスの死後」の解説
紀元前323年のアレクサンドロスの死後の属領分割(バビロン会議)ではプトレマイオスがエジプト太守に任じられ、クレオメネスはその補佐につけられた。しかし、クレオメネスがプトレマイオスと対立していた摂政ペルディッカスと親しかったために、プトレマイオスはクレオメネスが自分に従わないと考えてクレオメネスを殺害した。クレオメネスの8000タラントンもの財産はプトレマイオスの手に渡り、彼はその金で対ペルディッカス戦のための軍備を整えた。
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アレクサンドロスの死後
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「ペルディッカス」の記事における「アレクサンドロスの死後」の解説
ペルディッカスは臨終のアレクサンドロスによって印綬の指輪を渡され、(ユニティヌスは、これを「暗黙の」後継者指名だったと記しアッリアノスではこの経緯が欠損している)王の死後に開かれたバビロン会議では主導権を握り、王の遺児でまだ生まれぬロクサネの子(後のアレクサンドロス4世)の暫定的な後見人、摂政となり、帝国の実質的なトップの座に就いた。その際、ペルディッカスはアレクサンドロスの異母兄弟のアリダイオスを推す歩兵とそれに迎合した武将メレアグロスとの騒動で一時は殺されそうになった。騎兵と他の諸将の支持を得たペルディッカスは歩兵たちを演説によって説得して和解し、アリダイオスを王としてロクサネの子が男子ならその共同統治者とし、共にロクサネの子の後見人になることにしてメレアグロスとも妥協し、難なきを得た。しかし、その直後に神殿に逃げ込んだメレアグロスを殺害した。 その後、ペルディッカスはバビロン会議で未だ征服されぬカッパドキアを割り当てられた盟友エウメネスのためにカッパドキアへと遠征し、同地の王アリアラテス1世を滅ぼした。また、自らの勢力の安定化のため、重臣アンティパトロスとの連携を目論み、彼の娘ニカイアとの結婚を申し出たが、ペルディッカスを自分の側に引き入れようと考えたアレクサンドロス3世の母オリュンピアスは、自分の娘クレオパトラとの結婚を勧めた。そこでペルディッカスは一旦アンティパトロスの娘と結婚し、すぐ離婚してクレオパトラと結婚しようとした。アンティパトロスはそれに怒り、彼に警戒心を抱いていたクラテロス、プトレマイオス、アンティゴノス[要曖昧さ回避]らの諸将と共に対ペルディッカス同盟を結び、戦争の運びとなった。ペルディッカスは小アジアに味方の諸将を配置しつつ、そこでの戦いをエウメネスに任せ、自身はプトレマイオスを滅ぼすべく軍勢を率いてエジプトに向かった。しかしナイル渡河に失敗し、落胆した兵士たちによって反乱が起こり、ペルディッカスは部下のペイトン、アンティゲネス、セレウコスらによって暗殺された。
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