大王の死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 04:07 UTC 版)
アレクサンドロスの死後、バビロン会議でマケドニアの実権を握ったペルディッカスはアンティパトロスにマケドニア本国およびギリシアの支配権を認め、ペルディッカスを含む他の重臣らと共同で未だ生まれぬアレクサンドロスとロクサネの子(後のアレクサンドロス4世)の暫定的な後見人となった。 紀元前322年、アンティパトロスはアレクサンドロスの死に乗じたアテナイ、アイトリア、そしてテッサリアの反乱(ラミア戦争)に遭った。緒戦で反乱軍に敗れた彼はラミアに包囲されたが、レオンナトス、クラテロスの助けを借りつつ、クランノンで敵を破り、反乱を鎮圧した。 その後、ペルディッカスがアンティパトロスの娘との婚約を破棄し、オリュンピアスの娘と結婚したり、彼が帝国の全支配者になろうとしているとの知らせを受けるなどしたため、次第にアンティパトロスと他の将軍たちはペルディッカスと対立していき、アンティパトロスはクラテロス、プトレマイオスらと共に反ペルディッカス同盟を組み、戦争となった。 紀元前321年に遠征先のエジプトでペルディッカスが部下に暗殺されると、残ったディアドコイによりトリパラディソスの軍会が開かれ、帝国領と地位の再分配が行われた。この会議でアンティパトロスは帝国摂政となって会議を主導し、アレクサンドロスの遺児アレクサンドロス4世とアレクサンドロスの兄弟のピリッポス3世の後見人としてギリシアを支配するに到った。 紀元前320年、トリパラディソスの軍会でペルディッカス派として討伐の対象となり、アンティゴノスによってカッパドキアのノラに包囲されたエウメネスはアンティパトロスに救援を求める要請をした。そこでアンティパトロスは本来は敵のはずのエウメネスのために援軍を送り、アンティゴノスに包囲を諦めさせた。ここにはアジアの総司令官となり、強大化してきたアンティゴノスへの警戒心があり、その対抗馬としてエウメネスを温存するという意図があったのかもしれない。 その後、アンティパトロスは病を患って職を辞し、やがて死んだ。その際、彼は自身の地位を老将ポリュペルコンに譲った。しかし、この人事は後の混乱の元となる不味いものであった。というのも、我こそは父の地位を継ぐものと思っていたカッサンドロスはその人事に不満を抱き、アンティゴノスと組んでポリュペルコンに対峙し、新たな戦争の火種となったからである。
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