大王の作戦とその齟齬とは? わかりやすく解説

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大王の作戦とその齟齬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:12 UTC 版)

第二次シュレージエン戦争」の記事における「大王の作戦とその齟齬」の解説

ベーメンにおける戦争大王計画通り進んでいたが、すでにこの時点重大な誤算生じつつあった。8月8日出征していたルイ15世メッツ急病倒れ一時危篤に陥って終油の秘跡を受けるほどであったため、フランス軍全体指揮混乱し撤退を図るオーストリア軍有効な追撃妨害も行うことができなかったのである。王はまもなく回復したが、戦争へ興味失い帰国してしまった。8月23日から24日にかけてオーストリア軍ライン川の逆渡河成功しハイルブロン態勢整えたのちベーメン急行しつつあった。 このような状況の中で、プラハ制圧後のプロイセン軍には、ピルゼンのバッチャーニ軍を駆逐しベーメン内のオーストリアの反撃拠点無くしベーメン北半の占領確かなものにして冬営準備整え次の季節を待つという選択肢もあった。しかし大王はこの策を取らなかった。大王フランス軍によるオーストリア軍足止め失敗したことは知っていたが、フランス軍遠からずこれを追って来ると期待していた。 ところが大王期待反してフランス軍その後消極的な作戦終始し、シュメッタウの執拗な要請にもかかわらずせいぜいフライブルクへの攻撃のみを行ってオーストリア軍追撃しなかった。もう一つ味方であるゼッケンドルフ皇帝軍も、戦力賭してオーストリア軍への実効ある妨害を行うようなことはせず、むしろオーストリア軍が去るのを待ってからバイエルン回復するのを喜ぶような状態であった大王プラハ占領から時を置かず、ただちに南下開始したプラハ守備のためにアインジーデルと5千人残し残り全軍ターボルを、そこからフラウエンベルク、さらにはブトヴァイスを目指した。前衛ナッサウ務め大王シュヴェリーン率い本隊プラハから東南のピシェリュでサザワ川を渡ってターボル直進、若デッサウ部隊本隊側面援護しモルダウ川沿いを行進し、ポサドフスキーが本隊続いて後衛補給部隊率いた補給部隊モルダウ東岸起伏の多い地形貧弱な道路悩まされることになった強力なナッサウ前衛部隊9月23日ターボル占領し30日にはブトヴァイスを占領、翌10月1日には抵抗していたフラウエンベルクも陥落した大王本隊27日ターボル到着しプロイセン軍進軍は非常に順調なように思われたが、すでに破局前兆現れ始めていた。

※この「大王の作戦とその齟齬」の解説は、「第二次シュレージエン戦争」の解説の一部です。
「大王の作戦とその齟齬」を含む「第二次シュレージエン戦争」の記事については、「第二次シュレージエン戦争」の概要を参照ください。

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