オーストリアの反撃とは? わかりやすく解説

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オーストリアの反撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:12 UTC 版)

第二次シュレージエン戦争」の記事における「オーストリアの反撃」の解説

エルザスからの転進成功させたオーストリア軍主力部隊は、9月後半から順次ベーメン入り、バッチャーニ軍が受け入れ準備整えていたピルゼン集結しつつあった。オーストリア軍には最高指揮官であるカール公子後見役として老練なトラウンがおり、実質的には彼が作戦指導行っていた。このオーストリア軍にはバッチャーニやフランツ・レオポルト・ナーダジュディといったハンガリー貴族率いられ多数軽騎兵軽歩兵がいた。トラウン本隊到着先行して彼らをモルダウ流域に展開させ、プロイセン軍へ攻撃を行わせていた。 プロイセン軍オーストリア軍ベーメン到着しつつあると気付いてはいたが、具体的な所在については情報を得ることが出来なかった。オーストリア軍展開した濃密な阻止線のため、大王皇帝軍ともフランス軍とも全く連絡取れない状態に陥った直近のオーストリア軍行軍についての皇帝軍の通報大王元に届くことがなく、プロイセン軍斥候部隊優勢な敵の前に偵察行動制限されモルダウ西岸南北各地有力なオーストリア軍部隊見たという不確かな情報しかもたらされることがなかった。大王はこの状況に「この四週間私には情報手紙もない。良い現地人協力者を見つけることもできないカール公子は、バッチャーニは、ザクセン軍は、ベーメンにいるのかそれとも北京にいるのかも判らない」と吐露した。 ザクセン軍についてはエーガー川方面部隊から彼らが接近しつつあるとの報告もたらされていたが、オーストリア軍については異な複数情報寄せられていた。大王オーストリア軍モルダウ上流ブトヴァイスを目指していると判断したターボル到着した大王主力西南転じ10月4日モルダウタインでモルダウ川渡った。そして西進しながら捜索隊派出し、こちらに向かって行軍してきているはずのオーストリア軍会戦によって撃破することを目指した。 3日空費ののち、大王はようやくオーストリア軍本当位置知った。すなわち、10月2日時点オーストリア軍プロイセン軍のずっと北のミロティッツにあり、そこから北東進出しつつあったのであるトラウンは、オーストリア軍ピルゼン集結しているにもかかわらずプロイセン軍南下し続け様子見てプロイセン軍はこちらの行動把握できていないことを知ったトラウンモルダウ渡河して、プラハターボル中間位置しプロイセン軍中継基地のあるベネシャウに向かいプラハからプロイセン軍切断しようと図ったのである

※この「オーストリアの反撃」の解説は、「第二次シュレージエン戦争」の解説の一部です。
「オーストリアの反撃」を含む「第二次シュレージエン戦争」の記事については、「第二次シュレージエン戦争」の概要を参照ください。

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