オーストリアの反革命
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「ドイツにおける1848年革命」の記事における「オーストリアの反革命」の解説
1848年6月16日にヴィンディシュ=グレーツ指揮下のオーストリア軍がプラハ聖霊降臨祭蜂起(ドイツ語版)を鎮圧し、7月25日にラデツキー指揮下のオーストリア軍がクストーツァの戦いでサルデーニャ軍に勝利すると、オーストリアの旧勢力は攻勢に転じた。 1848年8月12日、フェルディナント1世はインスブルックからウィーンに戻った。その直後の1848年8月21日、労働者階層の民衆は高失業率と賃金抑制の政令に抗議して街頭で暴動を起こした。1848年8月23日、オーストリア軍は非武装のデモ隊に発砲し、数人が撃たれた。 1848年9月末、皇帝フェルディナント1世(ハンガリー国王フェルディナーンド5世)は、ハンガリーの民主主義者の反乱を鎮圧するため、イェラチッチ指揮下のオーストリア・クロアチア軍を派遣した。1848年9月29日、オーストリア軍はパーコズドの戦い(英語版)でハンガリー革命軍に敗れ、1848年10月6日から同7日にかけて、ウィーン市民は皇帝の命じたハンガリー出兵に反対するデモを行った。この結果、皇帝フェルディナント1世は1848年10月7日にウィーンを離れ、帝国東部のモラヴィアのオルミュッツという要塞都市に居を定めた。 このウィーン十月蜂起に対しては、まもなくヴィンディシュ=グレーツ指揮下の皇帝軍が討伐に当たり、激しい市街戦の末、10月末までには革命勢力の鎮圧に成功した。この時、フランクフルト国民議会内の左翼党派は、オーストリア政府の武力による反革命がいかなるものか、実地調査のために、ローベルト・ブルーム(ドイツ語版)をウィーンへ代表として派遣していた。ブルームは市街戦に参加し、国民議会議員としての不可侵権を主張したにもかかわらず、逮捕されて11月9日に処刑された。フランクフルト国民議会は反発し、オーストリア政府とフランクフルト国民議会の間に亀裂が生じた。 オーストリアの首相シュヴァルツェンベルクが1848年11月27日にクレムジール憲法制定帝国議会においてオーストリア帝国の一体不可分性の原則を声明すると、両者の対立は決定的となった。 1848年12月2日、フェルディナント1世は甥のフランツ・ヨーゼフ1世に譲位した。 1849年3月4日、クレムジール憲法草案(ドイツ語版)を基にした中央集権的な欽定憲法 (Reichsverfassung für das Kaisertum Österreich, 通称欽定三月憲法: Oktroyierte Märzverfassung) が採択され、クレムジール憲法制定帝国議会は3月7日に解散した(しかし、同憲法は1851年12月31日の大晦日勅令(ドイツ語版)で撤回され、新絶対主義(ドイツ語版)と呼ばれる時代が到来することとなった)。
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