オーストリアの獲得
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「ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「オーストリアの獲得」の解説
ボヘミアとの戦争を終えたルドルフは、フリードリヒ2世時代に悪化した帝国と教皇庁との関係の修復を試みる。前の皇帝たちが採ったイタリアへの積極的な介入は行わず、家領の確保に努めた。1279年に帝国がイタリアに有していた権利の多くを放棄し、行政の権限と行使者をローマ教会の権威に服させた。同年にロマーニャ地方を教皇に寄進した。ロマーニャの寄進によってシチリア王国に対する教皇庁との同盟が成立し、ルドルフが有するローマ王位の世襲化も検討された。 1281年にアルブレヒトをオーストリアの領邦摂政に任命するが、オーストリアの貴族たちはアルブレヒトの政策に恐怖を抱いたため、上級領邦貴族(ラントヘル)にアルブレヒトの補佐を任せた。1282年12月にルドルフは諸侯と交渉し、プシェミスル家からオーストリア、シュタイアーマルク公、ケルンテンを没収した。ケルンテンはチロル伯マインハルトに与え、入念な手続きを経てオーストリアとシュタイアーマルクを長子アルブレヒトと次子ルドルフに封土(レーン)として与えた。また、エーガーとエーガーラントは帝国の直属領に編入される。 最初アルブレヒトとルドルフがオーストリアの共同統治を行っていたが、1283年6月1日のラインフェルデンの契約によってアルブレヒトが単独のオーストリア領邦君主となった。ルドルフのドイツ王の権限を利用して一門の利益を増やす家領政策によってハプスブルク家はスイスからオーストリアに支配地を広げた。一族が本拠としていたアールガウのハービヒツブルク城から、ブルック(ドイツ語版)を経てウィーンに本拠地を移した。
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