領土配分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 14:45 UTC 版)
「第一次ポーランド分割」の記事における「領土配分」の解説
1772年9月22日、三国が分割条約を批准した。これはフリードリヒ2世にとっては大成功だった。プロイセンが獲得した地域は三国の取り分の中で最少だったとはいえ、飛びぬけて発展し戦略的にも重要な地であった。プロイセンはヴァルミアを含む王領プロイセンのほぼ全土を獲得した。これにより長らく飛び地同士だった東プロイセンとブランデンブルクが陸続きとなった。またノテチ川沿いのヴィエルコポルスカ北部、クヤフスキ北部も獲得したが、グダンスクとトルンは奪えなかった。プロイセンは、1773年に併合した領土を西プロイセン州とした。 全体として、プロイセンは3万6000 km2の領土と60万人の人口を手に入れた。フリードリヒ2世はただちにこの地域へドイツ人入植者を送り込み、積極的にドイツ化を推し進めた。彼はポーランド・ポメラニアに2万6000人のドイツ人を定着させ、当時の約30万人ほどの住民にドイツ化を強いた。ノテチや旧王領プロシアでは、人口の54%、都市住民の75%がドイツ語を話すプロテスタントになった。18世紀には、この状況を根拠としてドイツの民族主義的な歴史家たちがポーランド分割を正当化したが、これは分割当時の状況には当てはまらない。そもそもドイツ文化に対して否定的だったフリードリヒ2世は、むしろ帝国主義政策を追求していた。プロイセン王国の東西をつないだ新領土は、経済的にも重要だった。プロイセンはポーランドから海を奪う形となり、ポーランド・リトアニア共和国の対外貿易の8割以上を支配するようになった。ここに高関税をかけることで、プロイセンはポーランド・リトアニア共和国の崩壊を加速させた。 マリア・テレジアの反対にもかかわらず分割に参加したヴェンツェル・アントン・フォン・カウニッツは、オーストリアの獲得領は補償として十分だと考えていた。分割にもっとも消極的だったにもかかわらず、結局ハプスブルク帝国は三国で最大の人口(265万人)と2番目に広大な領土(8万3000 km2)を獲得した。その内訳は、ザトル、オシフィエンチム、クラクフ県やサンドミェシュ県の一部とボフニャやヴィエリチカの塩鉱山を含むマウォポルスカの一部、クラクフを除くガリツィア全土である。 ロシアが獲得した北東部は、広大とはいえ経済的には最も価値が低かった。ロシアが得たのは大まかにダウガヴァ川、ドルト川、ドニエプル川の東側で、ヴィーツェプスク、ポラツク、ムスツィスラウを含むベラルーシも併合した。ロシアは9万2000 km2の領土と130万人の人口を手に入れ、一部をノヴゴロド県の一部とし、残りの地域にプスコフ県とモギリョフ県を新設した。1772年5月28日、ザハル・チェルヌィショフが新領土の総督に任命された。 もともと73万3000 km2の領土と1400万人の人口を擁していたポーランド・リトアニア共和国は、第一次分割によって21万1000 km2(30%)と400万人から500万人(3分の1)を失った。
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