領地の変遷と世界大戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/12 14:19 UTC 版)
「ダンピア海峡」の記事における「領地の変遷と世界大戦」の解説
1883年、ニューホランド クイーンズランド州政府は東パプアの併合を宣言したが、その後大英帝国によって否定された。1884年、ドイツ帝国がニューギニア島東半分の北側、およびニューブリタニア諸島を併合し、ニューブリタニア諸島をビスマルク諸島と改名した。 第一次世界大戦が発生すると数か月の戦いの後、1914年オーストラリア軍がドイツ領ニューギニアを占領し、戦間期はヴェルサイユ条約により国際連盟委任統治領としてオーストラリアが管理した。 第二次世界大戦当時の日本軍は、ヴィティアス海峡も含めて、ニューブリテン島とニューギニア島の間の海域を、ダンピール海峡と呼んでいた。1942年3月8日に、日本軍は2つの大隊をフォン湾沿岸のラエとサラマウアに上陸させ、ダンピア海峡とヴィティアス海峡を制圧した。1943年3月2日から3日にかけて、ニューギニア島へ向かう日本軍の輸送船団がビスマルク海からダンピア海峡近辺にかけての海域で、連合国軍航空隊の攻撃によって全滅、将兵3000名が戦死した(ビスマルク海海戦)。この海戦は日本側から「ダンピールの悲劇」と呼ばれた。1943年12月にアメリカ軍がニューブリテン島に上陸した(グロスター岬の戦い)。 ダグラス・マッカーサー将軍は、1944年2月12日、ルーク島(ウンボイ島)を抵抗を受けることなく占領したと発表した 。第1海兵師団B中隊は上陸用舟艇でダンピア海峡を渡った。 第二次大戦後はオーストラリア管理の信託統治を経て、1975年 パプアニューギニアが独立した。
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