戦間期とは? わかりやすく解説

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せんかん‐き【戦間期】

読み方:せんかんき

1918年第一次大戦終結から、1939年第二次大戦勃発までの約20年の期間。


戦間期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/03 06:43 UTC 版)

戦間期(せんかんき、: interbellum: interwar period)は、第一次世界大戦終結から第二次世界大戦勃発まで、つまり、基本的には1919年から1939年までの時代である。両大戦間期大戦間期ともいう。世界史全体に関わるが、特にヨーロッパ史において重要である。なお 、欧米では20世紀の冷戦と21世紀の冷戦の間の1990年代から2000年代を指して冷戦間期(inter-cold war period)と呼ぶこともある。


  1. ^ アメリカの要望に応じて0.025割(約6,000トン)を削ることで対英米6.975割とした


「戦間期」の続きの解説一覧

戦間期(1919年-1939年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 02:39 UTC 版)

20世紀のフランス」の記事における「戦間期(1919年-1939年)」の解説

詳細は「フランス第三共和政」を参照 1920年トゥール議会フランス社会党(SFIO)二つ分裂し多数派分かれてフランス共産党Section française de l'internationale communiste)を結成したレオン・ブルム率いる残る少数派は、「古い家を保ち」、SFIOに留まった。1924年1932年に再び社会党は「左翼連合英語版)」の中で急進党合体したが、実際に急進派エドゥアール・エリオエドゥアール・ダラディエ率い非社会政権参加することを拒否したダラディエ1934年2月6日の危機後で極右連盟圧力辞任し保守派ガストン・ドゥメルグ議会の代表任命された。左翼ドイツ1922年ローマ進軍などの事件と共に起きたものとして右翼クーデター恐れていた。従ってコミンテルン影響下で共産党路線変更し反ファシスト連合」を採用し人民戦線1936年-1938年)を導き1936年選挙に勝ちブルムフランス最初社会主義者首相とした。共産党参加しないまま支援する一方で社会党参加せず第一次世界大戦前急進党政権支援したのと同じ手法で)、人民戦線急進党社会党成り立っていた。しかし1年レオン・ブルム政権経済政策ブルジョワジー有名な200家族」)の反対スペイン内戦問題巡って崩壊したブルムスペイン共和党支援することが多く一般的な欧州戦争促進するかも知れない判断しアドルフ・ヒトラーベニート・ムッソリーニ恥も外聞もなく武装する一方でこの決定フランス左翼からの大量転向者を生み出しフランシスコ・フランコ軍を支援した)。 フランス極右は、大い拡大し民族反ユダヤ主義考えが、多く地域急増したファシスト連盟同様に数多極右や反議院内閣者の連盟が、フランソワ・ド・ラロッククロア・ド・フー1927年-1936年)を含めて誕生し大きな競争相手のように君主制主義アクション・フランセーズが(1898年創立され1926年ピウス11世から非難されアクション・フランセーズ国家宗教として君主制ローマカトリック再生支援した)、国民的な統合主義社会器官調和英語版)とする信念)を唱導し、政府転覆することを望みながらスタヴィスキー事件1934年)への反応として大衆的示威行為組織した1934年2月6日の危機参照)。 1920年代フランス復活するドイツ増強補填する精巧な国境防衛体制マジノ線)や同盟を(小協商参照創設し1930年代戦争による大損失がチェコスロヴァキアに関するドイツとの戦争防止になる思う大衆受けした宥和政策選択したフランス多く発生することになり、フランスとの同盟が、1938年ミュンヘン会談価値がなかったことを証明したフランス1920年英語版)も参照

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戦間期 (1918年 - 1941年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/20 09:46 UTC 版)

ダルマチア・イタリア人」の記事における「戦間期 (1918年 - 1941年)」の解説

第一次世界大戦終結と、サン=ジェルマン条約によるオーストリア=ハンガリー帝国解体に伴いダルマチア大部分新たにできたセルブ・クロアート・スロヴェーン王国(のちのユーゴスラビア王国)一部となったイタリア王国は、イタリアダルマチア大部分与えるという三国協商側と秘密のロンドン条約(1915年)締結後大戦時連合国側について戦った。しかし協定は、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソン、そして南スラヴ代表団反対によってヴェルサイユ条約無効にされた。イストリアそして後のリエカとは別にイタリアはしかしながらツレス島ロシュニ島、ラストヴォ島、及びザダル獲得した。ほぼ2万人というイタリア人大多数が、ユーゴスラビアとなったダルマチア出てイタリア領内ダルマチア主としてザダルに再移住したユーゴスラビア王国イタリアとの関係が悪影響もたらし緊張絶えことはなかった。なぜならば第一にダルマチアに関する論争があり、第二リエカ港をめぐる長い論争結果リエカ国際連盟によって自由都市国家となったからだった。ところが、作家ガブリエーレ・ダンヌンツィオ率い一部イタリア人反逆者によってリエカ占領された。1924年ラパッロ条約リエカイタリアユーゴスラビアとの間で分割された。 1922年以降ファシズムイタリアで政権握ったファシスト政治には強硬な国家主義政策含まれていた。少数派住民権利厳しく制限された。これには、スラヴ語教育現場からの締め出し住民の名前の強制的なイタリア語化、このような状況対す抗議への過酷な迫害含まれていた。 ザダルでは、多くクロアチア人ファシスト政権のこれら抑圧政策のため都市去った同様の抑圧残留したダルマチア・イタリア人に対してユーゴスラビアダルマチア起こったかについては、強制的なスラヴ化が起きなかったように、あったとは言えない。実際ユーゴスラビアに住む少数派イタリア人は、ラパッロ条約によってある程度イタリア市民権初等教育)の保護受けていた。 この全てが、2つ民族集団の間の極度敵意増幅させた。19世紀ダルマチアでは上流階級でのみ対立があったが、いまや住民全体での違う階級ごとに相互憎悪増していた。

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戦間期(車両・編成)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/09 17:21 UTC 版)

北急行」の記事における「戦間期(車両・編成)」の解説

1926年運転再開時点で、北急行用いられ寝台車S型S1型)である。これは全鋼製で、1人用個室8室、2人用個室4室からなる北急行運用には21両(2943号車 - 2963号車)が充てられた。このほか、食堂車5両(2877号車 - 2881号車)、荷物車8両(1245号車 - 1252号車)が北急行専用とされた。 その後1931年にはワゴン・リ社史上最も豪華な寝台車であるLx10型(1人用個室10室)7両(3509号車 - 3515号車)が加わったまた、このときからS型寝台車2人用個室二等車三等級制)扱いとなった1934年には、オーステンデ - ブカレスト系統用にS型寝台車9両(2789号車 - 2796号車、2799号車)が充てられた。1935年加わったパリ - コペンハーゲン間の客車はY型(3588号車 - 3592号車)である。1937年には、パリ - ベルリンポーランドリガ間のS型寝台車はすべてLX16型(1人用個室4室、2人用6室)に置き換えられた。また、カレー - ワルシャワ系統にはS型寝台車充てられた。

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戦間期(経由地・停車駅)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/09 17:21 UTC 版)

北急行」の記事における「戦間期(経由地停車駅)」の解説

特記以外は1936年時点ワゴン・リ社時刻表(Mühl 1991, pp. 207-208)による。経由地停車駅備考カレー - ブリュッセル (-ワルシャワ)フランスカレー マリティーム(臨港)駅 イギリス・ドーバーとの連絡船接続リール サン・タンドレ駅(フランス語版) 駅の所在地リール市外サン=タンドレ=レ=リールフランス語版) ベルギートゥルネー ブリュッセル 北駅 以下オーステンデ発着編成合流オーステンデ - リエージュ (-ブカレスト)ベルギーオーステンデ ケ(桟橋)駅 現オーステンデ駅。イギリス・ドーバーとの連絡船接続ヘント シント=ピーテルス駅 ブリュッセル 北駅 リエージュ ギユマン駅 以下、パリ発着編成合流パリ - ベルリン - ワルシャワフランスパリ 北駅 ウルノワ(フランス語版1933年以降パリ - リエージュ間無停車 1928年までカレー発着編成はここで合流ジュモンフランス語版国境駅 ベルギーエルクリンヌ(フランス語版国境シャルルロワ ナミュール リエージュ ギユマン駅 オーステンデ発着編成合流ヴェルヴィエ 中央駅フランス語版) ヘルベスタル(ドイツ語版国境駅。 ドイツアーヘン 国境駅。 ケルン 中央駅 ヴッパータール ヴッパータール・エルバーフェルト駅(現中央駅ドイツ語版)) 1933年以前デュッセルドルフデュースブルクエッセンドルトムント経由ハーゲン ハム ハノーファー ハンブルクコペンハーゲン行き分割ベルリン 動物園駅 フリードリヒ通り駅 シュレージエン駅 現東駅 フランクフルト・アン・デア・オーダー ノイ・ベンチェン 国境駅。現ポーランド領ズボンシネク(ポーランド語版) ポーランドズボンシン(ポーランド語版) 国境駅。 ポズナン クトノ(ポーランド語版) 1929年以前オストロフポーランド語版)、ウッチ経由ワルシャワ (旧)中央駅Dworzec Główny w Warszawie ワルシャワ都心貫通線ポーランド語版)上の地下駅。現中央駅とは異なる。 ビャウィストク ストルプツェ 国境駅。現ベラルーシ領ストーブシー(ベラルーシ語版) ソビエト連邦ネゴレロエ 国境駅。現ベラルーシ領Пасёлак Негарэлае。モスクワ方面乗り換え。 (パリ-) ベルリン - リガドイツベルリン シュレージエンランツベルクポーランドゴジュフ・ヴィエルコポルスキ シュナイデミュール 現ポーランドピワ ポーランドホイニツェ(ポーランド語版) ポーランド回廊 トチェフ この間自由都市ダンツィヒ領を通過 ドイツエルビング 現ポーランドエルブロンク ケーニヒスベルクロシア領カリーニングラード インステルブルクロシアチェルニャホフスク アイトクーネン 国境駅。現ロシア領チェルニシェフスコエ(ロシア語版) リトアニアヴィルバリス ヴィルバリス国境駅。駅の所在地はキーバルタイ(リトアニア語版)。 カウナス シャウレイ ヨニシュキス(リトアニア語版) 国境ラトビアMeitene 国境駅。駅の所在地はエレヤ(ラトビア語版)。 イェルガヴァ リガ モスクワ方面乗り換え。 (パリ - ) ハノーファー - アルトナ - コペンハーゲンドイツハノーファー ハンブルク 中央駅 ダムトーア駅 アルトナ 中央駅 1938年以降ハンブルク=アルトナ駅 フレンスブルク 国境駅 デンマークパドボー(デンマーク語版) 国境フレゼリシア ニュボー(デンマーク語版) この間連絡船大ベルト海峡横断。 コアセア(デンマーク語版) コペンハーゲン オスロ方面乗り換え。 (オーステンデ - ) ベルリン - ブカレストドイツベルリン シュレージエンフランクフルト・アン・デア・オーダー ブレスラウポーランドヴロツワフ グライヴィッツポーランドグリヴィツェ ボイテン 国境駅。現ポーランドビトム ポーランドカトヴィツェ クラクフ プシェムィシル ルヴフウクライナリヴィウ Śniatyn 国境駅。現ウクライナ領Снятин ルーマニアGrigore Ghica Vodă 国境駅。現ウクライナ領Неполоківці チェルナウツィ 現ウクライナチェルニウツィー マラシェシュティ(ルーマニア語版) プロイェシュティ ブカレスト 北駅

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戦間期 (1660年 - 65年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/27 13:22 UTC 版)

ジョン・ハーマン」の記事における「戦間期 (1660年 - 65年)」の解説

1664年ハーマン58門の大砲備え戦列艦グロスター艦長となった1665年春、彼はロイヤル・チャールズ副官事実上艦長となった

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戦間期 (1668年–72年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/27 13:22 UTC 版)

ジョン・ハーマン」の記事における「戦間期 (1668年72年)」の解説

1669年から1670年にかけて、ハーマンThomas Allin従いジブラルタル海峡付近での作戦参加した以前イングランドアルジェリア条約結んでいたのだが、アルジェリアバルバリア海賊がこれを無視してイングランド商船襲い続けていたのであるハーマン膨大な数の海賊船捕獲破却する戦果挙げた後、イングランド帰国した1672年ハーマンは青戦隊後方提督となり、初代サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギュー麾下入った

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戦間期(1918年 - 1940年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 13:44 UTC 版)

軍事指揮官の一覧」の記事における「戦間期(1918年 - 1940年)」の解説

ケマル・アタテュルク - トルコ軍人初代大統領ガリポリの戦いイギリス軍撃破その後革命指導してトルコ共和国建国した。 ミハイル・トゥハチェフスキー - ソビエト連邦軍人その後ソ連軍基礎作った石原莞爾 - 日本軍人関東軍作戦主任参謀として満州事変主導した最終戦争論記した事でも知られるシモン・ペトリューラ - ウクライナ人民共和国軍事担当官同国軍を指揮したイェヴヘーン・コノヴァーレツィ - ウクライナ人民共和国軍精鋭部隊シーチ銃兵隊指揮官ソ連ポーランド対すウクライナ独立のための武力闘争指揮したラーヴル・コルニーロフ - ロシア内戦における白軍白衛軍)のカリスマ的司令官ミハイル・アレクセーエフ - 白軍司令官アレクサンドル・コルチャーク - 白軍総司令官ソビエト勢力捉えられ刑死するまで、白軍政府主席であったアントーン・デニーキン - 義勇軍南ロシア軍司令官指揮する軍隊は「デニーキン軍」と呼ばれウクライナ軍ソビエト赤軍恐れられた。 ピョートル・ヴラーンゲリ - 南ロシア軍ロシア軍司令官

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