戦間期
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戦間期(せんかんき、羅: interbellum、英: interwar period)は、第一次世界大戦終結から第二次世界大戦勃発まで、つまり、基本的には1919年から1939年までの時代である。両大戦間期、大戦間期ともいう。世界史全体に関わるが、特にヨーロッパ史において重要である。欧米では20世紀の冷戦と21世紀の冷戦の間の1990年代から2000年代を指して、冷戦間期(inter-cold war period)と呼ぶこともある。
- 1 戦間期とは
- 2 戦間期の概要
戦間期(1919年-1939年)
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「20世紀のフランス」の記事における「戦間期(1919年-1939年)」の解説
詳細は「フランス第三共和政」を参照 1920年のトゥール議会でフランス社会党(SFIO)は二つに分裂し、多数派が分かれてフランス共産党(Section française de l'internationale communiste)を結成した。レオン・ブルム率いる残る少数派は、「古い家を保ち」、SFIOに留まった。1924年と1932年に再び社会党は「左翼連合(英語版)」の中で急進党と合体したが、実際には急進派エドゥアール・エリオとエドゥアール・ダラディエの率いる非社会党政権に参加することを拒否した。ダラディエは1934年2月6日の危機の後で極右連盟の圧力で辞任し、保守派のガストン・ドゥメルグが議会の代表に任命された。左翼はドイツの1922年のローマ進軍などの事件と共に起きたものとして右翼のクーデターを恐れていた。従ってコミンテルンの影響下で共産党は路線を変更し「反ファシスト連合」を採用し人民戦線(1936年-1938年)を導き1936年の選挙に勝ちブルムをフランス最初の社会主義者の首相とした。共産党が参加しないまま支援する一方で(社会党が参加せずに第一次世界大戦前に急進党政権を支援したのと同じ手法で)、人民戦線は急進党と社会党で成り立っていた。しかし1年でレオン・ブルム政権は経済政策やブルジョワジー(有名な「200家族」)の反対、スペイン内戦の問題を巡って崩壊した(ブルムはスペイン共和党を支援することが多くの一般的な欧州戦争を促進するかも知れないと判断し、アドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニが恥も外聞もなく武装する一方でこの決定はフランス左翼からの大量の転向者を生み出し、フランシスコ・フランコ軍を支援した)。 フランスの極右は、大いに拡大し、民族と反ユダヤ主義の考えが、多くの地域で急増した。ファシスト連盟と同様に数多の極右や反議院内閣者の連盟が、フランソワ・ド・ラロックのクロア・ド・フー(1927年-1936年)を含めて誕生し、大きな競争相手のように君主制主義者アクション・フランセーズが(1898年に創立され、1926年にピウス11世から非難され、アクション・フランセーズは国家宗教として君主制とローマカトリックの再生を支援した)、国民的な統合主義(社会は器官の調和(英語版)とする信念)を唱導し、政府を転覆することを望みながらスタヴィスキー事件(1934年)への反応として大衆的示威行為を組織した(1934年2月6日の危機参照)。 1920年代、フランスは復活するドイツの増強を補填する精巧な国境防衛体制(マジノ線)や同盟を(小協商参照)創設し、1930年代、戦争による大損失がチェコスロヴァキアに関するドイツとの戦争防止になる思う大衆受けした宥和政策を選択したフランスに多く発生することになり、フランスとの同盟が、1938年のミュンヘン会談で価値がなかったことを証明した。 フランスの1920年(英語版)も参照
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戦間期 (1918年 - 1941年)
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「ダルマチア・イタリア人」の記事における「戦間期 (1918年 - 1941年)」の解説
第一次世界大戦の終結と、サン=ジェルマン条約によるオーストリア=ハンガリー帝国解体に伴い、ダルマチアの大部分は新たにできたセルブ・クロアート・スロヴェーン王国(のちのユーゴスラビア王国)の一部となった。 イタリア王国は、イタリアにダルマチアの大部分を与えるという三国協商側と秘密のロンドン条約(1915年)を締結後、大戦時に連合国側について戦った。しかし協定は、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソン、そして南スラヴ代表団の反対によってヴェルサイユ条約で無効にされた。イストリアそして後のリエカとは別に、イタリアはしかしながらツレス島、ロシュニ島、ラストヴォ島、及びザダルを獲得した。ほぼ2万人というイタリア人の大多数が、ユーゴスラビア領となったダルマチアを出て、イタリア領内のダルマチア、主としてザダルに再移住した。 ユーゴスラビア王国とイタリアとの関係が悪影響をもたらし、緊張が絶えることはなかった。なぜならば第一にダルマチアに関する論争があり、第二にリエカ港をめぐる長い論争の結果リエカが国際連盟によって自由都市国家となったからだった。ところが、作家ガブリエーレ・ダンヌンツィオ率いる一部のイタリア人反逆者によってリエカが占領された。1924年、ラパッロ条約でリエカはイタリアとユーゴスラビアとの間で分割された。 1922年以降、ファシズムがイタリアで政権を握った。ファシスト政治には強硬な国家主義政策が含まれていた。少数派住民の権利は厳しく制限された。これには、スラヴ語の教育現場からの締め出し、住民の名前の強制的なイタリア語化、このような状況に対する抗議への過酷な迫害が含まれていた。 ザダルでは、多くのクロアチア人がファシスト政権のこれら抑圧政策のため都市を去った。同様の抑圧が残留したダルマチア・イタリア人に対してユーゴスラビア領ダルマチアで起こったかについては、強制的なスラヴ化が起きなかったように、あったとは言えない。実際、ユーゴスラビアに住む少数派のイタリア人は、ラパッロ条約によってある程度(イタリア市民権と初等教育)の保護を受けていた。 この全てが、2つの民族集団の間の極度の敵意を増幅させた。19世紀のダルマチアでは上流階級でのみ対立があったが、いまや住民全体での違う階級ごとに相互の憎悪が増していた。
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戦間期(車両・編成)
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1926年の運転再開時点で、北急行に用いられた寝台車はS型(S1型)である。これは全鋼製で、1人用個室8室、2人用個室4室からなる。北急行の運用には21両(2943号車 - 2963号車)が充てられた。このほか、食堂車5両(2877号車 - 2881号車)、荷物車8両(1245号車 - 1252号車)が北急行専用とされた。 その後、1931年にはワゴン・リ社史上最も豪華な寝台車であるLx10型(1人用個室10室)7両(3509号車 - 3515号車)が加わった。また、このときからS型寝台車の2人用個室は二等車(三等級制)扱いとなった。1934年には、オーステンデ - ブカレスト系統用にS型寝台車9両(2789号車 - 2796号車、2799号車)が充てられた。1935年に加わったパリ - コペンハーゲン間の客車はY型(3588号車 - 3592号車)である。1937年には、パリ - ベルリン、ポーランド、リガ間のS型寝台車はすべてLX16型(1人用個室4室、2人用6室)に置き換えられた。また、カレー - ワルシャワ系統にはS型寝台車が充てられた。
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戦間期(経由地・停車駅)
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特記以外は1936年時点のワゴン・リ社の時刻表(Mühl 1991, pp. 207-208)による。 国経由地停車駅備考カレー - ブリュッセル (-ワルシャワ)フランスカレー マリティーム(臨港)駅 イギリス・ドーバーとの連絡船に接続。 リール サン・タンドレ駅(フランス語版) 駅の所在地はリール市外のサン=タンドレ=レ=リール(フランス語版) ベルギートゥルネー ブリュッセル 北駅 以下オーステンデ発着編成と合流。 オーステンデ - リエージュ (-ブカレスト)ベルギーオーステンデ ケ(桟橋)駅 現オーステンデ駅。イギリス・ドーバーとの連絡船に接続。 ヘント シント=ピーテルス駅 ブリュッセル 北駅 リエージュ ギユマン駅 以下、パリ発着編成と合流。 パリ - ベルリン - ワルシャワフランスパリ 北駅 ウルノワ(フランス語版) 1933年以降はパリ - リエージュ間無停車 1928年までカレー発着編成はここで合流。 ジュモン(フランス語版) 国境駅 ベルギーエルクリンヌ(フランス語版) 国境駅 シャルルロワ ナミュール リエージュ ギユマン駅 オーステンデ発着の編成と合流。 ヴェルヴィエ 中央駅(フランス語版) ヘルベスタル(ドイツ語版) 国境駅。 ドイツアーヘン 国境駅。 ケルン 中央駅 ヴッパータール ヴッパータール・エルバーフェルト駅(現中央駅(ドイツ語版)) 1933年以前はデュッセルドルフ、デュースブルク、エッセン、ドルトムント経由。 ハーゲン ハム ハノーファー ハンブルク、コペンハーゲン行きを分割。 ベルリン 動物園駅 フリードリヒ通り駅 シュレージエン駅 現東駅 フランクフルト・アン・デア・オーダー ノイ・ベンチェン 国境駅。現ポーランド領ズボンシネク(ポーランド語版) ポーランドズボンシン(ポーランド語版) 国境駅。 ポズナン クトノ(ポーランド語版) 1929年以前はオストロフ(ポーランド語版)、ウッチ経由。 ワルシャワ (旧)中央駅Dworzec Główny w Warszawie ワルシャワ都心貫通線(ポーランド語版)上の地下駅。現中央駅とは異なる。 ビャウィストク ストルプツェ 国境駅。現ベラルーシ領ストーブシー(ベラルーシ語版) ソビエト連邦ネゴレロエ 国境駅。現ベラルーシ領Пасёлак Негарэлае。モスクワ方面へ乗り換え。 (パリ-) ベルリン - リガドイツベルリン シュレージエン駅 ランツベルク 現ポーランド領ゴジュフ・ヴィエルコポルスキ シュナイデミュール 現ポーランド領ピワ ポーランドホイニツェ(ポーランド語版) ポーランド回廊 トチェフ この間自由都市ダンツィヒ領を通過 ドイツエルビング 現ポーランド領エルブロンク ケーニヒスベルク 現ロシア領カリーニングラード インステルブルク 現ロシア領チェルニャホフスク アイトクーネン 国境駅。現ロシア領チェルニシェフスコエ(ロシア語版) リトアニアヴィルバリス ヴィルバリス駅 国境駅。駅の所在地はキーバルタイ(リトアニア語版)。 カウナス シャウレイ ヨニシュキス(リトアニア語版) 国境駅 ラトビアMeitene 国境駅。駅の所在地はエレヤ(ラトビア語版)。 イェルガヴァ リガ モスクワ方面へ乗り換え。 (パリ - ) ハノーファー - アルトナ - コペンハーゲンドイツハノーファー ハンブルク 中央駅 ダムトーア駅 アルトナ 中央駅 1938年以降はハンブルク=アルトナ駅 フレンスブルク 国境駅 デンマークパドボー(デンマーク語版) 国境駅 フレゼリシア ニュボー(デンマーク語版) この間連絡船で大ベルト海峡を横断。 コアセア(デンマーク語版) コペンハーゲン オスロ方面へ乗り換え。 (オーステンデ - ) ベルリン - ブカレストドイツベルリン シュレージエン駅 フランクフルト・アン・デア・オーダー ブレスラウ 現ポーランド領ヴロツワフ グライヴィッツ 現ポーランド領グリヴィツェ ボイテン 国境駅。現ポーランド領ビトム ポーランドカトヴィツェ クラクフ プシェムィシル ルヴフ 現ウクライナ領リヴィウ Śniatyn 国境駅。現ウクライナ領Снятин ルーマニアGrigore Ghica Vodă 国境駅。現ウクライナ領Неполоківці チェルナウツィ 現ウクライナ領チェルニウツィー マラシェシュティ(ルーマニア語版) プロイェシュティ ブカレスト 北駅
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戦間期 (1660年 - 65年)
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「ジョン・ハーマン」の記事における「戦間期 (1660年 - 65年)」の解説
1664年、ハーマンは58門の大砲を備える戦列艦グロスターの艦長となった。1665年春、彼はロイヤル・チャールズの副官(事実上の艦長)となった。
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戦間期 (1668年–72年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/27 13:22 UTC 版)
「ジョン・ハーマン」の記事における「戦間期 (1668年–72年)」の解説
1669年から1670年にかけて、ハーマンはThomas Allinに従い、ジブラルタル海峡付近での作戦に参加した。以前イングランドはアルジェリアと条約を結んでいたのだが、アルジェリアのバルバリア海賊がこれを無視してイングランド商船を襲い続けていたのである。ハーマンは膨大な数の海賊船を捕獲・破却する戦果を挙げた後、イングランドに帰国した。1672年、ハーマンは青戦隊の後方提督となり、初代サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギューの麾下に入った。
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戦間期(1918年 - 1940年)
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「軍事指揮官の一覧」の記事における「戦間期(1918年 - 1940年)」の解説
ケマル・アタテュルク - トルコの軍人。初代大統領。ガリポリの戦いでイギリス軍を撃破。その後、革命を指導してトルコ共和国を建国した。 ミハイル・トゥハチェフスキー - ソビエト連邦の軍人。その後のソ連軍の基礎を作った。 石原莞爾 - 日本の軍人。関東軍作戦主任参謀として満州事変を主導した。最終戦争論を記した事でも知られる。 シモン・ペトリューラ - ウクライナ人民共和国の軍事担当官。同国軍を指揮した。 イェヴヘーン・コノヴァーレツィ - ウクライナ人民共和国軍の精鋭部隊シーチ銃兵隊の指揮官。ソ連やポーランドに対するウクライナ独立のための武力闘争を指揮した。 ラーヴル・コルニーロフ - ロシア内戦における白軍(白衛軍)のカリスマ的司令官。 ミハイル・アレクセーエフ - 白軍の司令官。 アレクサンドル・コルチャーク - 白軍の総司令官。ソビエト勢力に捉えられて刑死するまで、白軍政府の主席であった。 アントーン・デニーキン - 義勇軍、南ロシア軍の司令官。指揮する軍隊は「デニーキン軍」と呼ばれ、ウクライナ軍、ソビエト赤軍に恐れられた。 ピョートル・ヴラーンゲリ - 南ロシア軍、ロシア軍の司令官。
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