戦間期
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戦間期(せんかんき、羅: interbellum、英: interwar period)は、第一次世界大戦終結から第二次世界大戦勃発まで、つまり、基本的には1919年から1939年までの時代である。両大戦間期、大戦間期ともいう。世界史全体に関わるが、特にヨーロッパ史において重要である。欧米では20世紀の冷戦と21世紀の冷戦の間の1990年代から2000年代を指して、冷戦間期(inter-cold war period)と呼ぶこともある。
ヨーロッパ
戦間期のヨーロッパは、多少の例外や時間の前後はあるものの、ともに似通った危機と似通った安定を経験した。第一次世界大戦で深刻な被害を受けた地域がヨーロッパに限られたこともあって、戦間期という区切りはヨーロッパにおいてもっとも大きな意義を持つ。
1919年第一次大戦終結から1924年頃までは、戦後危機の時代である。この時期に敗戦国の経済は混乱し、戦勝国も戦争で受けた打撃から立ち直れずにいた。小さな戦争や軍事介入が頻発し、特に敗戦国で革命勢力と反革命勢力の激しい戦争が続いた。
1924年頃から1929年は、相対的安定期と呼ばれる。この時代に各国の経済はカルテルにより合理化をとげ、人々の生活にゆとりが生まれ、大衆文化が登場した。例外はあるものの、民主主義体制が優勢で、程度の差こそあれ議会政治が重んじられた。各国の協調外交のおかげでヨーロッパに平和が訪れた。
1929年から1939年までは、大恐慌とファシズムの台頭に見舞われた危機の時代である。この時代の前半は倒産と大量失業で経済と生活がどん底に落ち込み、自国産業の保護の為ブロック経済体制が取られた。新興の民主主義体制は次々に覆され、ファシズム体制か類似の権威主義体制に取って代わられた。後半には経済の下落に歯止めがかかったが、真の経済回復は訪れなかった。末期には国家社会主義ドイツ労働者党政権下のドイツと、ファシスト党政権下のイタリアが近隣諸国を軍事力で脅かし、軍事的緊張が昂進した。
アメリカ
第一次世界大戦終結後のアメリカは、国土が大戦の被害を受けなかったこともあり「狂騒の20年代」と呼ばれた好景気の時代であった。ところが、1930年代の世界恐慌の時代には、失業率が25%に達する状態であり、失業対策としてフランクリン・ルーズベルト政権は「ニューディール政策」を実行した。
日本
日本では、第一次世界大戦時は国土が大戦の被害を受けなかったこともあり、船や衣類などの成金が勃興した(暗がりで紙幣を燃やして「どうだ、明るくなったろう」と述べる風刺画は有名)大戦景気の時代で、政治的にも大正デモクラシーに代表される自由闊達で民主的な空気が溢れていた時代であり、後の高度経済成長期からバブル景気にかけてと通じる時代であった。
しかし、第一次大戦終結後の1920年になると株価が下落して戦後恐慌が始まり、1923年には震災恐慌、1927年には金融機関の破綻が相次ぐ金融恐慌など慢性的な不況に陥り、1930年代初頭は世界恐慌の影響で「娘の身売り」や「大学は出たけれど」のことばで知られる昭和恐慌の時代であった。政治的にも1925年の治安維持法の制定を契機として大正デモクラシーの自由で民主的な空気は成りを潜め、1931年に満州事変が勃発し年を追うごとに軍国主義・全体主義への傾斜を強めていった。
なお、上述のように日本においては第一次世界大戦が景気や社会に与えた影響は限定的であったため、西洋史において戦間期と呼ばれる時期は、日本の歴史においては「第二次世界大戦以前」という意味で、一括りに「戦前」と呼ばれることが一般的である。
条約・会議
- 四カ国条約(1921年)- アメリカ・イギリス・フランス・日本の太平洋における領土と権益の相互尊重と現状維持。この条約の発効により日英同盟は更新されなかった。
- 九カ国条約(1922年)- アメリカ・イギリス・オランダ・イタリア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民国が参加。戦後のワシントン体制が整えられた。
- 海軍休日 - 大艦巨砲主義 - 軍拡により各国の財政が圧迫されたため、建造を抑える事で健全化を目指した。
- ワシントン海軍軍縮条約(1921年)- 当時の戦勝国である五大国(アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア)の戦艦・航空母艦等の保有の制限。
- ジュネーブ海軍軍縮会議(1927年)- アメリカ、イギリス、日本における補助艦(巡洋艦や潜水艦など)の保有制限交渉であったが、軍人主体であったため決裂に終わる。
- ロンドン海軍軍縮会議(1930年)- イギリス、日本、アメリカ、フランス、イタリアが政治的解決策を検討。建艦技術の発展に合わせて各種艦艇の定義を厳密化して、各国の戦力を比率で制限。この際、「対英米7割」が達成されなかったために「統帥権干犯問題」が発生した[1]。
- 第二次ロンドン海軍軍縮会議(1936年)- イギリス、アメリカ、フランスが締結。日本、イタリアは脱退。
脚注
- ^ アメリカの要望に応じて0.025割(約6,000トン)を削ることで、対英米6.975割とした。
参考文献
- 林健太郎 『両大戦間の世界』、講談社〈講談社学術文庫〉、1976年。
関連項目
戦間期(1919年-1939年)
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「20世紀のフランス」の記事における「戦間期(1919年-1939年)」の解説
詳細は「フランス第三共和政」を参照 1920年のトゥール議会でフランス社会党(SFIO)は二つに分裂し、多数派が分かれてフランス共産党(Section française de l'internationale communiste)を結成した。レオン・ブルム率いる残る少数派は、「古い家を保ち」、SFIOに留まった。1924年と1932年に再び社会党は「左翼連合(英語版)」の中で急進党と合体したが、実際には急進派エドゥアール・エリオとエドゥアール・ダラディエの率いる非社会党政権に参加することを拒否した。ダラディエは1934年2月6日の危機の後で極右連盟の圧力で辞任し、保守派のガストン・ドゥメルグが議会の代表に任命された。左翼はドイツの1922年のローマ進軍などの事件と共に起きたものとして右翼のクーデターを恐れていた。従ってコミンテルンの影響下で共産党は路線を変更し「反ファシスト連合」を採用し人民戦線(1936年-1938年)を導き1936年の選挙に勝ちブルムをフランス最初の社会主義者の首相とした。共産党が参加しないまま支援する一方で(社会党が参加せずに第一次世界大戦前に急進党政権を支援したのと同じ手法で)、人民戦線は急進党と社会党で成り立っていた。しかし1年でレオン・ブルム政権は経済政策やブルジョワジー(有名な「200家族」)の反対、スペイン内戦の問題を巡って崩壊した(ブルムはスペイン共和党を支援することが多くの一般的な欧州戦争を促進するかも知れないと判断し、アドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニが恥も外聞もなく武装する一方でこの決定はフランス左翼からの大量の転向者を生み出し、フランシスコ・フランコ軍を支援した)。 フランスの極右は、大いに拡大し、民族と反ユダヤ主義の考えが、多くの地域で急増した。ファシスト連盟と同様に数多の極右や反議院内閣者の連盟が、フランソワ・ド・ラロックのクロア・ド・フー(1927年-1936年)を含めて誕生し、大きな競争相手のように君主制主義者アクション・フランセーズが(1898年に創立され、1926年にピウス11世から非難され、アクション・フランセーズは国家宗教として君主制とローマカトリックの再生を支援した)、国民的な統合主義(社会は器官の調和(英語版)とする信念)を唱導し、政府を転覆することを望みながらスタヴィスキー事件(1934年)への反応として大衆的示威行為を組織した(1934年2月6日の危機参照)。 1920年代、フランスは復活するドイツの増強を補填する精巧な国境防衛体制(マジノ線)や同盟を(小協商参照)創設し、1930年代、戦争による大損失がチェコスロヴァキアに関するドイツとの戦争防止になる思う大衆受けした宥和政策を選択したフランスに多く発生することになり、フランスとの同盟が、1938年のミュンヘン会談で価値がなかったことを証明した。 フランスの1920年(英語版)も参照
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