戦間期から第二次世界大戦終結まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 00:52 UTC 版)
「巡洋戦艦」の記事における「戦間期から第二次世界大戦終結まで」の解説
第一次大戦終了後から第二次世界大戦までは、ワシントン軍縮条約の制約と経済恐慌の影響で、大艦巨砲主義は一時中断となった。この時期にドイツ(ヴァイマル共和政)がヴェルサイユ条約の枠内で建造したドイッチュラント級装甲艦(ポケット戦艦)は、公称基準排水量1万トン(実際は1万2,000トン)でありながら前大戦時で巡洋戦艦に多用された28cm砲を持ち、各国の戦艦よりも高速の26-28ノットを発揮した。ポケット戦艦の登場は、ヨーロッパに衝撃を与えた。このクラスに対してイギリスは巡洋戦艦で対抗可能であったが、巡洋戦艦を持たないフランスはこれに対抗するため、既存の戦艦よりも高速なダンケルク級戦艦を建造した。主砲の33cm砲は、新型の長砲身砲であり、重量級砲弾と相まって、イギリスの38.1cm砲に匹敵する攻撃力を持っていた。また集中防御方式による堅牢な防御は、メルセルケビール海戦において能力が実証された。こうした艦は、防御力と高速性能を重視し主砲口径をやや小さなものを選択するという意味で、第一次世界におけるドイツの巡洋戦艦に類似する性格のクラスであった。日本海軍はダンケルク級を「巡洋戦艦」と評している。 ヒトラーを新首相に迎えたドイツは、フランスのダンケルク級戦艦に対抗する必要に迫られた。1934年計画で建造が決まったドッチェラント級装甲艦(ポケット戦艦)2隻の設計を大幅に変更し、シャルンホルスト級戦艦を完成させる。ヴェルサイユ条約および英独海軍協定による制約と政治的配慮から、28cm砲を搭載せざるを得なかった。また艦体の設計開発においても立ち遅れ、近距離砲戦用の垂直装甲の防御性能は数値上では一応自艦の28cm主砲弾に耐えられるものを持つが、現実には主装甲の上下幅が非常に狭く防御範囲が限定されるために劣っており、また遠距離砲戦や爆撃に対抗するための水平防御はさらに劣るという、いささか前時代的なコンセプトのクラスとなってしまった。本級は、いわゆる「防御力を備えた巡洋戦艦」といえる。 最後の巡洋戦艦と呼べる艦は、アメリカが建造したアラスカ級大型巡洋艦で、これはドイツのシャルンホルスト級と日本の新大型巡洋艦計画(アメリカは情報分析によりこの計画を察知したとされるが完全な誤報で日本にそのような建艦計画はなかった)に対抗するための計画艦であり、主砲は30.5cmだが重量級砲弾を50口径の長砲身砲で撃ち出すことにより遠距離での貫通能力を高めた。もちろんアラスカ級はその主砲口径・装甲厚・速力を他国の巡洋戦艦と比較して類似点が多いことをもって巡洋戦艦と「呼べる」存在であったものであって、アメリカ海軍自身はあくまでもアラスカ級の種別を「大型巡洋艦」としており「巡洋戦艦」とはしていなかった。なお、アラスカ級は艦隊護衛の防空任務にのみ投入されて水上戦闘は行っておらず、「巡洋『戦艦』」としての実戦能力は不明である。 最終的に、防御力を改装で強化した巡洋戦艦と、速力を設計段階から重視した新世代の戦艦とは、性能的に大差ない存在となった。ワシントン軍縮条約明け(日本の脱退)にともない、イタリアのヴィットリオ・ヴェネト級、ドイツのビスマルク級、および、フランスのリシュリュー級と、30ノット&長砲身15インチ砲搭載の4万(名目は、3.5万)トンクラスの建造競争が続いた。最後に、その集大成といえるアメリカ海軍のアイオワ級が建造された。火力に見合った防御を有していない艦、戦艦でありながら巡洋戦艦的性格が残っている艦という評もある。しかし、交戦国の戦艦が戦没して消滅し、アイオワ級の防御は検証されることなく終わった。また戦艦そのものが、独力で航空打撃力に抗しうるものではなく、コストパフォーマンスと運用の悪さからも時代遅れの存在と化し、順次消えていった。
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