戦間期における内部マケドニア革命組織
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「内部マケドニア革命組織」の記事における「戦間期における内部マケドニア革命組織」の解説
第一次世界大戦後のヌイイ条約は、ブルガリアによるマケドニアおよびトラキアの領有を否定した。この後、マケドニア・アドリアノープル革命運動は2つの組織に分裂した。ひとつは内部トラキア革命組織(Вътрешна тракийска революционна организация、Vatreshna Trakiyska Revoliucionna Organizacia、en)であり、もうひとつは内部マケドニア革命組織である。 内部トラキア革命組織はギリシャ領となった西トラキアからストルマ川(Струма)、ロドピ山脈にかけての一帯で1922年から1934年にかけて活動した。内部トラキア革命組織の設立の理由は、第一次世界大戦後のヌイイ条約によってこの西トラキア地方の領有権がギリシャに移ったためである。内部トラキア革命組織は『民族の別に関わらず、トラキア地方における全ての不満要因を糾合し』、地域の政治的独立を勝ち取ることであった。 後に、内部マケドニア革命組織はその衛星組織として内部西方失地革命組織(Вътрешна западнопокрайненска революционна организация、Vatreshna Zapadnopokraynenska Revoliucionna Organizacia)を設立し、ブルガリアからユーゴスラビアに割譲されたディミトロフグラード(en)、ボシレグラード(en)などで活動した。 内部マケドニア革命組織は「チェタ」とよばれる武装集団をギリシャ領マケドニア(エーゲ・マケドニア)およびユーゴスラビア領マケドニア(ヴァルダル・マケドニア)、およびギリシャ領トラキア地方に送り込み、現地の当局関係者を暗殺し、ギリシャ、ユーゴスラビア支配にたいする人々の反発心を扇動した。1923年、内部マケドニア革命組織は、ギリシャやユーゴスラビアとの緊張緩和を望んでいた当時のブルガリアの首相アレクサンドル・スタンボリスキー(Aleksandar Stamboliyski)を暗殺、ブルガリアは内部問題に大きく揺れた。内部マケドニア革命組織は事実上ピリン・マケドニアにおいて全権を掌握し、この地方は「国内国家」の様相を呈していた。ブルガリア政府の右翼政治家、そして後にはファシズム化したイタリア王国からも支援を受けるようになった内部マケドニア革命組織は、ピリン・マケドニアをユーゴスラビアへのヒット・アンド・ラン攻撃の拠点としていた。 1923年から1924年にかけて、戦間期における内部マケドニア革命組織によるユーゴスラビア領マケドニア(ヴァルダル・マケドニア)における戦闘活動が最も活発となっていた。内部マケドニア革命組織の統計によると、53グループの「チェタ」が活動し、うち34グループはブルガリアから、12グループは地元から、5グループはアルバニアからヴァルダル・マケドニアに浸透していた。統計によると、武装勢力の構成員は総計3245人で、74人の指揮官と54人の副指揮官、34人の秘書官、193人のスパイを持っていた。また、119回の戦闘と74回のテロリズム活動が記録されている。セルビア側の死者は304人の軍および憲兵の隊員、兵士、民兵で、負傷者は1300人を超える。内部マケドニア革命組織は68の戦闘員を失い、数百人が負傷した。 一方、ギリシャ領マケドニア(エーゲ・マケドニア)においては24グループの「チェタ」と10の地元の偵察分遣隊が活動していた。統計によると380の戦闘員があり、18の指揮官、22の副指揮官、11の秘書官、25のスパイを持っていた。42回の戦闘と27回のテロリズム活動が行われた。ギリシャ側の死者は83人の軍人、兵士、民兵で、230人以上が負傷した。内部マケドニア革命組織は22人の戦闘員を失い、48人が負傷した。数千の地元人がギリシャおよびユーゴスラビアの当局からスパイ活動や革命運動との接触を理由に抑圧された。 多くのブルガリア領マケドニア(ピリン・マケドニア)の人々が祖国防衛隊を組織した。この民兵集団は、ギリシャ軍のテオドロス・パンガロス将軍(Θεόδωρος Πάγκαλος、Theodoros Pangalos)による1925年の大規模なピリン・マケドニアへの軍事行動(ペトリチ事変、The incident at Petrich)に対して抵抗していた唯一の精力であった。1934年、ブルガリア軍はペトリチ地区(ピリン・マケドニア)およびキュステンディル地区のみで1万938丁のライフル銃、637丁のピストル、47丁のマシンガン、7機の臼砲、70万1388個の弾薬筒を押収した。 1924年、内部マケドニア革命組織はコミンテルンと接触を図り、共産主義者とマケドニア革命運動との協力関係と、統一されたマケドニア革命運動の構築について話し合った、この2者を統合する新しいアイディアはソビエト連邦によって支援されていた。ソビエト連邦は、このよく発展した軍事組織を、バルカン半島への共産主義革命思想の播種と、バルカン半島における王制の不安定化に利用することを意図していた。内部マケドニア革命組織の指導者アレクサンドロフは、革命組織の独立を守り、共産主義者側から出された要求をほぼすべて断った。両者の間では、書面化された「宣言」1通(1924年5月6日の「5月宣言」)を除いて何一つ合意は得られなかった。「宣言」の内容は、統一マケドニア解放運動の目的に関するもので、その目的を(1)分断状態にあるマケドニアの独立と統一、(2)周辺のバルカン半島の王制国家との戦い、(3)バルカン共産主義連合(en)の設立とソビエト連邦との協力、とした。 アレクサンドロフとの協力保障の取り付けに失敗したコミンテルンは、アレクサンドロフの信頼を失墜させることに決定し、この「宣言」の内容を1924年7月28日に「バルカン連邦」紙に公開した。内部マケドニア革命組織の指導者、トドル・アレクサンドロフとアレクサンダル・プロトゲロフはブルガリアのメディアを通じてこれらの内容を否定し、いかなる合意にも署名しておらず、この「宣言」は共産主義者によって捏造された偽文書であるとした。 直後、トドル・アレクサンドロフは不明瞭な理由によって逮捕され、内部マケドニア革命組織の指導者はイヴァン・ミハイロフ(Иван Михайлов、Ivan Mihailov)に移った。後にミハイロフはブルガリアの政治において重要な人物となっていった。アレクサンドロフは殺害され、内部マケドニア革命組織の指導部はすぐにこれを共産主義者のせいであると決めつけ、速やかに犯人に対して報復行動をとった。殺害には、ミハイロフ自身が関わっているのではないかという疑いがもたれている。幾らかのブルガリア人やマケドニア人の歴史家(ゾラン・トドロフスキ Zoran Todorovski など)は、内部マケドニア革命組織と共産主義者の連帯を恐れたブルガリア政府に影響されたミハイロフを中心とするグループによって殺害が行われたのではないかと疑っている。しかし、いずれの説も、結論となるような決定的な歴史的証拠を欠いている。殺害事件の結果、組織内部での争いが引き起こされ、1913年のオフリド蜂起を率いたペテル・チャウレフや、アレクサンダル・プロトゲロフが殺害されるといった事件が発生した。 この戦間期におけるアレクサンドロフ、後にはミハイロフに率いられた内部マケドニア革命組織は、かつての組織左派への攻撃も行い、かつての内部マケドニア・アドリアノープル革命組織のサンダンスキ派の構成員に対する暗殺にも及んだ。サンダンスキはブルガリア共産党への接近を強めていた。ゴルチェ・ペトロフ(Гьорче Петров、Gjorche Petrov、組織右派の創始者ボリス・サラフォフ、イヴァン・ガルヴァノフらを殺害した人物)が1924年、ウィーンで暗殺された。犯行は後にミハイロフの妻となるメンチャ・カルニチウ(Mencha Karnichiu)によるものであった。このほかにも、ディモ・ハジディモフ(Dimo Hadjidimov)、ゲオルギ・スクリジョフスキ(Georgi Skrizhovski)、アレクサンデル・ブイノフ(Alexander Bujnov)、チュドミル・カンタルジエフ(Chudomir Kantardjiev)など多くの人々は1925年に殺害された。 この間、組織左派は「5月宣言」に基づいた新しい組織を結成した。新しい組織はミハイロフの率いる内部マケドニア革命組織と敵対し、内部マケドニア革命組織(連合派)(en)と呼ばれた。連合派は1925年にウィーンで結成された。しかし、連合派は人々の支持を得ることができず、マケドニアで革命活動を行うことなくブルガリア国外での活動に終始した。連合派は1936年まで活動し、コミンテルンおよび「バルカン共産主義連合」から支援をうけ、強いつながりを持っていた。 若い内部マケドニア革命組織の中枢部から成るミハイロフのグループは、やがて古参の構成員との衝突に見舞われた。後者の古参の構成員たちは武装隊による浸透攻撃戦術を好んでいたが、前者はより柔軟な小規模の集団による選択的暗殺などのテロリズム活動のほうを好んでいた。衝突はやがて拡大して指導権争いに発展し、ミハイロフは1928年、対立する指導者アレクサンダル・プロトゲロフの暗殺を支持した。ミハイロフ派とプロトゲロフ派は厳しく対立した。プロトゲロフ派の中の少数は、ユーゴスラビアおよびユーゴスラビアへの接近を図るブルガリアのファシズムに傾倒した民兵組織と組むようになった。 内部マケドニア革命組織による暗殺政策は、セルビアが支配するヴァルダル・マケドニアを不安定化させる上で効果を発揮したが、反面でセルビア当局によるヴァルダル・マケドニアの地元の農民らに対する残忍な報復行動を誘起した。やがてミハイロフの暗殺政策はヴァルダル・マケドニアの人々からの多くの支持を失っていった。ミハイロフはマケドニア問題の「国際問題化」を画策するようになる。 ミハイロフはクロアチアの民族主義団体ウスタシャ、およびファシズム化したイタリアとの強い結びつきを構築した。内部マケドニア革命組織の工作員による暗殺はユーゴスラビアを主とする多くの国で行われた。そのなかで特筆すべきものは、ウスタシャとの協力のもとに行われた、ユーゴスラビアの国王アレクサンダル1世およびフランスの外相ルイ・バルトゥーがマルセイユで1934年に暗殺された事件であろう。殺害は内部マケドニア革命組織のテロリスト、ヴラド・チェルノゼムスキ(Владо Черноземски、Vlado Chernozemski)によって、1934年10月9日実行された。これは、ブルガリアで1934年5月19日におこった軍事クーデター後、内部マケドニア革命組織に対する弾圧があった後に起こった。 内部マケドニア革命組織による内輪での殺し合いと諸外国での暗殺活動は、ブルガリア国内での1934年5月19日の軍事クーデターを誘発した。クーデターによって成立した軍政は内部マケドニア革命組織の統制を奪い、その組織の力を破壊することを目的としていた。内部マケドニア革命組織はブルガリア国内においてはマフィア、国外においては暗殺者集団へと成り果てていた。1934年、ミハイロフはトルコへと亡命を余儀なくされた。ミハイロフは、ブルガリア人同士が殺し合い、国家が分裂し、内紛に突入したり外国の侵入を招くことを避けるために、支持者らに対してブルガリア軍に抵抗せず、武装解除命令に平和的に応じるよう呼びかけた。ピリン・マケドニアの多くの住民は、武装解除命令には素直に応じた。これは、それまでの違法でときに横暴な二重権力から解放されたと感じていたためであった。内部マケドニア革命組織は亡命状態となってブルガリア国外で存続し、その後もマケドニア問題において重要な力を維持し続けた。
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