戦間期における内部マケドニア革命組織とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 戦間期における内部マケドニア革命組織の意味・解説 

戦間期における内部マケドニア革命組織

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 16:25 UTC 版)

内部マケドニア革命組織」の記事における「戦間期における内部マケドニア革命組織」の解説

第一次世界大戦後ヌイイ条約は、ブルガリアによるマケドニアおよびトラキア領有否定したこの後、マケドニア・アドリアノープル革命運動2つ組織分裂した。ひとつは内部トラキア革命組織(Вътрешна тракийска революционна организация、Vatreshna Trakiyska Revoliucionna Organizaciaen)であり、もうひとつ内部マケドニア革命組織である。 内部トラキア革命組織ギリシャ領となった西トラキアからストルマ川(Струма)、ロドピ山脈にかけての一帯1922年から1934年にかけて活動した内部トラキア革命組織設立理由は、第一次世界大戦後ヌイイ条約によってこの西トラキア地方領有権ギリシャ移ったためである。内部トラキア革命組織は『民族別に関わらずトラキア地方における全ての不満要因糾合し』、地域政治的独立勝ち取ることであった。 後に、内部マケドニア革命組織はその衛星組織として内部西方失地革命組織(Вътрешна западнопокрайненска революционна организация、Vatreshna Zapadnopokraynenska Revoliucionna Organizacia)を設立しブルガリアからユーゴスラビア割譲されたディミトロフグラードen)、ボシレグラードen)などで活動した内部マケドニア革命組織は「チェタ」とよばれる武装集団ギリシャ領マケドニアエーゲ・マケドニア)およびユーゴスラビアマケドニアヴァルダル・マケドニア)、およびギリシャ領トラキア地方送り込み現地当局関係者暗殺しギリシャユーゴスラビア支配にたいする人々反発心を扇動した1923年内部マケドニア革命組織は、ギリシャユーゴスラビアとの緊張緩和望んでいた当時ブルガリアの首相アレクサンドル・スタンボリスキー(Aleksandar Stamboliyski)を暗殺ブルガリア内部問題大きく揺れた内部マケドニア革命組織事実上ピリン・マケドニアにおいて全権掌握し、この地方は「国内国家」の様相呈していた。ブルガリア政府右翼政治家、そして後にはファシズム化したイタリア王国からも支援を受けるようになった内部マケドニア革命組織は、ピリン・マケドニアユーゴスラビアへのヒット・アンド・ラン攻撃拠点としていた。 1923年から1924年にかけて、戦間期における内部マケドニア革命組織によるユーゴスラビアマケドニアヴァルダル・マケドニア)における戦闘活動が最も活発となっていた。内部マケドニア革命組織統計によると、53グループの「チェタ」が活動し、うち34グループブルガリアから、12グループ地元から、5グループアルバニアからヴァルダル・マケドニア浸透していた。統計によると、武装勢力構成員総計3245人で、74人の指揮官54人の副指揮官34人の秘書官193人のスパイ持っていた。また、119回の戦闘74回のテロリズム活動記録されている。セルビア側の死者304人の軍および憲兵隊員兵士民兵で、負傷者1300人を超える内部マケドニア革命組織68戦闘員失い数百人が負傷した一方ギリシャ領マケドニアエーゲ・マケドニアにおいては24グループの「チェタ」と10地元偵察分遣隊活動していた。統計によると380戦闘員があり、18指揮官22の副指揮官11秘書官25スパイ持っていた。42回の戦闘27回のテロリズム活動が行われた。ギリシャ側の死者83人の軍人兵士民兵で、230人以上が負傷した内部マケドニア革命組織22人の戦闘員失い48人が負傷した数千地元人がギリシャおよびユーゴスラビア当局からスパイ活動革命運動との接触理由抑圧された。 多くブルガリア領マケドニアピリン・マケドニア)の人々祖国防衛隊組織した。この民兵集団は、ギリシャ軍のテオドロス・パンガロス将軍(Θεόδωρος Πάγκαλος、Theodoros Pangalos)による1925年大規模なピリン・マケドニアへの軍事行動ペトリチ事変、The incident at Petrich)に対して抵抗していた唯一の精力であった1934年ブルガリア軍ペトリチ地区ピリン・マケドニア)およびキュステンディル地区のみで1万938丁のライフル銃637丁のピストル47丁のマシンガン、7機の臼砲701388個の弾薬筒押収した1924年内部マケドニア革命組織コミンテルン接触図り共産主義者マケドニア革命運動との協力関係と、統一されマケドニア革命運動の構築について話し合った、この2者を統合する新しアイディアソビエト連邦によって支援されていた。ソビエト連邦は、このよく発展した軍事組織を、バルカン半島への共産主義革命思想播種と、バルカン半島における王制不安定化利用することを意図していた。内部マケドニア革命組織指導者アレクサンドロフは、革命組織独立守り共産主義者側から出され要求をほぼすべて断った両者の間では、書面化された「宣言」1通(1924年5月6日の「5月宣言」)を除いて何一つ合意得られなかった。「宣言」の内容は、統一マケドニア解放運動の目的に関するもので、その目的(1)分断状態にあるマケドニア独立統一(2)周辺バルカン半島王制国家との戦い(3)バルカン共産主義連合en)の設立ソビエト連邦との協力、とした。 アレクサンドロフとの協力保障取り付け失敗したコミンテルンは、アレクサンドロフ信頼失墜させることに決定し、この「宣言」の内容1924年7月28日に「バルカン連邦」紙に公開した内部マケドニア革命組織指導者、トドル・アレクサンドロフとアレクサンダル・プロトゲロフはブルガリアメディア通じてこれらの内容否定しいかなる合意にも署名しておらず、この「宣言」は共産主義者によって捏造された偽文書であるとした。 直後、トドル・アレクサンドロフは不明瞭な理由によって逮捕され内部マケドニア革命組織指導者はイヴァン・ミハイロフ(Иван Михайлов、Ivan Mihailov)に移った。後にミハイロフブルガリア政治において重要な人物となっていった。アレクサンドロフ殺害され内部マケドニア革命組織指導部はすぐにこれを共産主義者のせいであると決めつけ、速やかに犯人に対して報復行動をとった。殺害には、ミハイロフ自身が関わっているのではないかという疑いもたれている。幾らかブルガリア人マケドニア人歴史家(ゾラン・トドロフスキ Zoran Todorovski など)は、内部マケドニア革命組織共産主義者連帯恐れたブルガリア政府影響されミハイロフ中心とするグループによって殺害が行われたのではないか疑っている。しかし、いずれの説も、結論となるような決定的な歴史的証拠欠いている。殺害事件結果組織内部での争い引き起こされ1913年オフリド蜂起率いたペテル・チャウレフや、アレクサンダル・プロトゲロフが殺害されるといった事件発生した。 この戦間期におけるアレクサンドロフ、後にはミハイロフ率いられ内部マケドニア革命組織は、かつての組織左派への攻撃行い、かつての内部マケドニア・アドリアノープル革命組織サンダンスキ派の構成員対す暗殺にも及んだサンダンスキブルガリア共産党への接近強めていた。ゴルチェ・ペトロフ(Гьорче Петров、Gjorche Petrov組織右派創始者ボリス・サラフォフ、イヴァン・ガルヴァノフらを殺害した人物)が1924年ウィーン暗殺された。犯行は後にミハイロフの妻となるメンチャ・カルニチウ(Mencha Karnichiu)によるものであった。このほかにも、ディモ・ハジディモフ(Dimo Hadjidimov)、ゲオルギ・スクリジョフスキ(Georgi Skrizhovski)、アレクサンデル・ブイノフ(Alexander Bujnov)、チュドミル・カンタルジエフ(Chudomir Kantardjiev)など多く人々1925年殺害された。 この間組織左派は「5月宣言」に基づいた新しい組織を結成した新しい組織はミハイロフ率い内部マケドニア革命組織敵対し内部マケドニア革命組織連合派)(en)と呼ばれた連合派は1925年ウィーン結成された。しかし、連合派は人々支持を得ることができず、マケドニア革命活動を行うことなくブルガリア国外で活動終始した連合派は1936年まで活動しコミンテルンおよび「バルカン共産主義連合」から支援をうけ、強いつながり持っていた。 若い内部マケドニア革命組織中枢から成るミハイロフグループは、やがて古参構成員との衝突見舞われた。後者古参構成員たちは武装隊による浸透攻撃戦術好んでいたが、前者はより柔軟な小規模集団による選択的暗殺などのテロリズム活動のほうを好んでいた。衝突はやがて拡大して指導争い発展しミハイロフ1928年対立する指導者アレクサンダル・プロトゲロフの暗殺支持したミハイロフ派とプロトゲロフ派は厳しく対立した。プロトゲロフ派の中の少数は、ユーゴスラビアおよびユーゴスラビアへの接近を図るブルガリアファシズム傾倒した民兵組織と組むようになった。 内部マケドニア革命組織による暗殺政策は、セルビア支配するヴァルダル・マケドニア不安定化させる上で効果発揮したが、反面セルビア当局によるヴァルダル・マケドニア地元農民らに対す残忍な報復行動誘起した。やがてミハイロフ暗殺政策ヴァルダル・マケドニア人々からの多く支持失っていった。ミハイロフマケドニア問題の「国際問題化」を画策するうになるミハイロフクロアチア民族主義団体ウスタシャ、およびファシズム化したイタリアとの強い結びつき構築した内部マケドニア革命組織工作員による暗殺ユーゴスラビア主とする多くの国で行われたそのなかで特筆すべきものは、ウスタシャとの協力のもとに行われたユーゴスラビア国王アレクサンダル1世およびフランス外相ルイ・バルトゥーがマルセイユ1934年暗殺され事件であろう殺害内部マケドニア革命組織テロリスト、ヴラド・チェルノゼムスキ(Владо Черноземски、Vlado Chernozemski)によって、1934年10月9日実行された。これは、ブルガリア1934年5月19日おこった軍事クーデター後内部マケドニア革命組織対す弾圧があった後に起こった内部マケドニア革命組織による内輪での殺し合い諸外国での暗殺活動は、ブルガリア国内での1934年5月19日軍事クーデター誘発したクーデターによって成立した軍政内部マケドニア革命組織統制奪い、その組織の力を破壊することを目的としていた。内部マケドニア革命組織ブルガリア国内においてはマフィア国外においては暗殺者集団へと成り果てていた。1934年ミハイロフトルコへ亡命余儀なくされた。ミハイロフは、ブルガリア人同士殺し合い国家分裂し内紛突入した外国侵入を招くことを避けるために、支持者に対してブルガリア軍抵抗せず武装解除命令平和的に応じるよう呼びかけた。ピリン・マケドニア多く住民は、武装解除命令には素直に応じた。これは、それまで違法でときに横暴な二重権力から解放されたと感じていたためであった内部マケドニア革命組織亡命態となってブルガリア国外で存続しその後マケドニア問題において重要な力を維持し続けた

※この「戦間期における内部マケドニア革命組織」の解説は、「内部マケドニア革命組織」の解説の一部です。
「戦間期における内部マケドニア革命組織」を含む「内部マケドニア革命組織」の記事については、「内部マケドニア革命組織」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「戦間期における内部マケドニア革命組織」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戦間期における内部マケドニア革命組織」の関連用語

戦間期における内部マケドニア革命組織のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戦間期における内部マケドニア革命組織のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの内部マケドニア革命組織 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS