戦間期のウクライナ君主主義運動
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「ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ (1895-1948)」の記事における「戦間期のウクライナ君主主義運動」の解説
ハプスブルク家が君主の椅子を追われた後、ヴィルヘルムが再びウクライナ人に注目された期間があった。ウクライナ国のヘトマンであったパウロー・スコロパードシクィイと国王候補者であったヴィルヘルムの2人のいずれかのもとで、ウクライナに君主制国家を樹立しようとする動きが出ていたのである。 1920年5月、スコロパードシクィイとヴィルヘルムは権威の分割について協議を進め、1921年1月に次の合意に達した。将来できるウクライナにおいて、スコロパードシクィイが中央および東部ウクライナのヘトマンとなり、東ガリツィアは自治区とし、ヴィルヘルムが国全体の王位に就くという内容であった。この計画は、赤軍が勢力を盛り返し、ウクライナ人民共和国が再建されたことによって潰えた。 1921年10月、ヴィルヘルムはウクライナで新聞を創刊し、社会主義的な王朝国家の建設を提唱した。「モダンな君主」によって統治されたほうが、民主主義の永続性という観点から共和国よりも見込みがあると主張し、この紙面においてヴィルヘルムは自身の政治的計画を発表した。 ウクライナがウクライナ・ソビエト社会主義共和国として完全に赤化すると、社会主義的王朝を志向するヴィルヘルムといえどもウクライナの君主に立つことは不可能になった。1922年11月、ヴィルヘルムは従兄のスペイン国王アルフォンソ13世の庇護を求めてマドリードに向かった。1920年代の終わりまで、ヴィルヘルムはマドリードとアンギャン=レ=バンを往復して過ごした。1930年代にはパリに転居し、高貴な生まれの大公として社交界で知られるようになった。ヴィルヘルムは男色家であり、亡命貴族の仲間たちと一緒に女装して夜会に繰り出すのを目撃されて新聞に奉じられたこともある。パリ警察によれば、ヴィルヘルムは同性愛の売春宿の常連だった。 1930年代初頭、未亡人となった皇后ツィタと皇太子オットー、そしてヴィルヘルムの3人がハプスブルク家の重要人物であった。ヴィルヘルムは両性愛者だったおかげで結婚をしておらず、当時貴賤結婚をしていない数少ない大公の一人だったのである。例えば、ヴィルヘルムの2人の兄は、貴賤結婚によって自ら王朝の将来から身を引いてしまっていた。この時期のヴィルヘルムは、まずオットーのもとでオーストリアを君主制に戻し、そのうえでウクライナに自身の分家を創設しようと考えていた。
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