戦間期のルーマニア領およびセルビア領バナト
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「バナト・ブルガリア人」の記事における「戦間期のルーマニア領およびセルビア領バナト」の解説
第一次世界大戦が終わると、オーストリア=ハンガリー帝国は解体され、バナトはルーマニア領とセルビア領に分割された。多くのバナト・ブルガリア人がルーマニア王国の国民となった一方、セルビア領バナトに住んでいた者はユーゴスラビア王国の国民となった。 ルーマニア王国では、国勢調査において、「バナト・ブルガリア人」は独立した民族として扱われた。教育においては基本的にルーマニア語が使用され、ブルガリア語の学校は国有化されなかった。1931年のルーマニアの地理学の書籍では、同国のティミシュ=トロンタル郡に住むブルガリア人を「外国人」と表現し、その民族意識はルーマニア人のもの程「美しくない」としたが、一般的にバナト・ブルガリア人は、戦間期のルーマニア王国においては、正教徒のブルガリア人少数民族よりは良い扱いをうけていた。 ユーゴスラビア王国では、ヴァルダル州(Vardar Banovina)、西方失地、そしてバナトを含む全ての地域において、ブルガリア人少数民族の存在を認めていなかった。戦間期のユーゴスラビア王国において、バナト・ブルガリア人の数は公的な資料から読み解くことはできない。ユーゴスラビア王国でも、バナト・ブルガリア人は正教徒のブルガリア人よりは良い扱いをうけていたが、教育ではセルビア・クロアチア語のみが認められていた。 1930年代において、ルーマニアのバナト・ブルガリア人は、イヴァン・フェルメンジン(Ivan Fermendžin)、アントン・レバノフ(Anton Lebanov)、カロル・テルビス(Karol Telbis (Telbizov))らを中心とした民族復興の時代を迎えた。これらの新しい文化的指導者たちは、パウロ派やローマ・カトリックのアイデンティティを用いてバナトのブルガリア人のアイデンティティを強調し、ブルガリア政府や、ルーマニア国内の他のブルガリア人、特にドブロジャのブルガリア人社会との結びつきを確立した。民族復興運動の主体となったのは、1935年から1943年までの間発行された「バナト・ブルガリア人の声(Banatsći balgarsći glasnić)」や、1935年から1943年まで年1回発行された「バナト・ブルガリア人のこよみ(Banatsći balgarsći kalendar)」であった。ブルガリア人のバナト移住200周年を祝福する計画もつくられた。これは、この時代のバナト・ブルガリア人による民族的アピールとしては最大級のものであり、ルーマニア政府によって部分的に見直しを余儀なくされたものの、多くのブルガリアの知識人の関心を引くこととなった。 スタル・ビシュノフのカロル・テルビスとカロル・マニョフの先導により、ルーマニアの国民農民党の下部組織としてブルガリア人農民党が1936年に設立された、ペタル・テルビスが議長となった。ペタル・テルビスはまた、1939年に発足した「バナトにおけるブルガリア国民協会」の会長にも就任した。 ブルガリアとユーゴスラビアは1930年代に入ると関係改善に向かい、ユーゴスラビアは間接的にバナト・ブルガリア人少数民族の存在を認めるようになった。しかしそれでも、バナト・ブルガリア人の民族復興はルーマニアよりも大幅に小さなものに留まった。テルビスやレバノフといったルーマニア領バナトのブルガリア人の活動は、ユーゴスラビア領のブルガリア人にわずかに影響を与えるのみに留まった。
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