戦間期の政治活動
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「ヴァルター・ウルブリヒト」の記事における「戦間期の政治活動」の解説
戦争に出る前の1912年、ウルブリヒトはドイツ社会民主党に加入している。戦後、1920年に彼はドイツ共産党 (KPD) の党員となり、1924年から1925年にかけてモスクワの国際レーニン学校でコミンテルンの指導を受けた。1926年、彼はザクセン州の州議会議員に当選、1928年から1933年には国会(ライヒスターク)議員も務めた。 1933年のナチスの政権獲得まで、ドイツではナチスの「突撃隊」や共産党の「赤色戦線戦士同盟」に代表されるような左右の政党の私兵部隊が示威行動を起こし、各地で騒動が頻発していた。双方の行動部隊や支持者、警察が入り乱れての暴力ざたもしばしば起こった。1931年、ベルリンの共産党員は警察が共産党のデモ隊員一人を殺すごとに警官を二人殺すことを決定、これを受けてウルブリヒトは同志のハインツ・ノイマン (Heinz Neumann) とハンス・キッペンベルガー (Hans Kippenberger) と共謀して警官二名を殺す計画を立て、エーリッヒ・ミールケら党員に警官殺害を実行させている。社会民主主義を敵視する社会ファシズム論が主流だった1932年、コミンテルンはドイツ共産党に社会民主党の敵であるナチスとの協力を指示し、ウルブリヒトはナチスのプロパガンダ担当者だったヨーゼフ・ゲッベルスと組んでそれぞれの構成員や労働者組織に同時ストライキを起こさせた。ストライキではナチスと共産党の双方の党員が共に行進し示威行動を行ったが、ストは5日で収束した。 1933年1月にナチスが政権を握ると、共産党員と社会民主党員の大規模な弾圧が始まった。共産党指導者エルンスト・テールマンが3月3日にゲシュタポに逮捕されると、ウルブリヒトは代わりの指導者となるよう担ぎ上げられた。指導者の座を争う他の有力党員達はすでにソビエト連邦において粛清されており、うちキッペンベルガーの殺害にはウルブリヒトの関与も指摘されている。 ウルブリヒトは1933年から1937年までパリとプラハに亡命した。ハインリヒ・マンが指揮するパリの反ナチス組織、「ドイツ人民戦線」は、コミンテルン指導下の組織を代わりに置こうとするウルブリヒトが背後で仕掛けたキャンペーンによって崩壊した。ウルブリヒトはパリにいた共産党創始者の一人ヴィリ・ミュンツェンベルク (Willi Münzenberg) にソ連に行くよう勧めたが、ミュンツェンベルクは拒否した。彼がソ連に行けば内務人民委員部 (NKVD) に逮捕粛清される運命が待っている、と両者とも考えていたと思われる。ミュンツェンベルクは1940年10月に森の中で吊るされるという、他殺とも自殺ともつかない謎の死を遂げた。一方ウルブリヒトは1937年から1945年までをソ連で過ごした。
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