戦間期~大祖国戦争
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「軍服 (ロシア・ソ連)」の記事における「戦間期~大祖国戦争」の解説
1935年 1930年代に入ると、スターリンによる統治が安定して近代化・工業化が進み、赤軍にも現代戦術に適応するための専門性が求められるようになる。こうして有資格者としての将校の身分が復活、軍服も兵との区分化が図られるようになった。 1935年12月3日付軍令176号により、制帽の鉢巻に兵科色が入り、庇は黒革となった。上衣はフレンチ、ギムナスチョルカ共通して襟と袖のパイピング、ズボンの側線に兵科色が入り、袖にV字型の階級章が付く。1936年3月10日付軍令33号により兵科徽章が改定。 また、戦車兵と航空兵にはそれぞれ灰色とダークブルーのブレザー制服が導入される。1941年2月1日付け軍令005号により、フレンチ制服、戦車兵と航空兵開襟制服、士官用ピロートカが廃止される。 M1935制帽を被る機関銃隊。ギムナスチョルカはいずれもM1924と思われる。PM1910重機関銃とモシン・ナガンで武装 スターリン(左)と談笑するヴォロシーロフ(赤軍元帥の制服を着用)、1935年。 M1935ギムナスチョルカ(スモック式の上衣)階級は下級小隊長 整列するソ連赤軍兵士、1941年。 1942年ごろの赤軍の軍服(右端、兵士と握手している人物はブレジネフ) 1941年に制定されたギャリソンキャップ(ピロートカ)(ピロトカとも呼ばれる) 海軍士官冬季制服の一等艦隊司令官(ミハイル・ビクトロフ(英語版)、1937年) 海軍夏季制服(コンスタンティン・バディーギン(ロシア語版)) 1943年改正 第二次世界大戦(独ソ戦)最中の1943年、ナショナリズムを鼓舞する意図からか、赤軍の軍服に、先述の帝政ロシア軍の要素が大幅に導入(換言すれば「復活」ないし「復古」)された。すなわち、縦長楕円形の帽章(中心に従来の赤い星がくる)、立襟の上着(従来の折り襟と併用)、肩章で表す階級章である。加えて、将官には制帽や襟の装飾に金の葉模様刺繍をふんだんに用いた礼服も制定された。第二次世界大戦後の社会主義陣営の軍隊にも大きな影響を与えたソ連軍の軍服にはこうして、「共産主義の軍隊」と「ロシア軍」の2つの要素が混在することになった。 1943年以降のソ連軍がロシア軍から引き継いだもっとも顕著な軍服の特徴は肩章であろう。それは19世紀に各国で一般的であった「エポレット」の影響を色濃く残す幅の広い肩章で、概ね以下のようなパターンで階級を表す。 正式(礼服・勤務服に用いる)兵・下士官は兵科色の地色(以下同)に金色の横線の刺繍の数で表す。 尉官は2本、佐官は3本の太い金色の縦線の刺繍が入り、その上に付く星の数で表す。 将官は地色(兵科色)を縁に細く残して肩章全体を金色の刺繍が覆い、その上に星の数で表す。 略式(戦闘服、後には勤務服にも用いる。迷彩効果を高めたもので、正式の肩章とは「地」と「柄」の関係が逆転している)兵・下士官は服生地と同じ色の肩章(以下同)に兵科色の横線の数で表す。 尉官は兵科色の縁取りに1本、佐官は2本の兵科色の細い縦線が入り、その上に付く銀色の星の数で表す。 将官は兵科色の縁取りに、金色の星の数で表す。 また元帥は大きな1個の星とソビエト連邦の紋章を並べて表されるが、これは帝政ロシアの「双頭の鷲」の紋章をあしらった階級章にヒントを得たものと思われる。 1943年以降の野戦服を着用し、PPSh-41と RGD-33手榴弾を携帯したいわゆる一般的な赤軍兵士のスタイル。肩章はバルチック艦隊を示し、海軍歩兵を再現した展示だが、野戦服自体は全軍で用いられた。 1943年式の士官上衣、大尉の階級章が付いている ゲオルギー・ジューコフ 元帥用礼装。ゲオルギー・ジューコフの着用していたもの。 元帥用礼装の正帽 冬季開襟制服(1943年) 海軍の夏服と冬服(1945年) 外套にピロートカの赤軍中尉(ヴァシル・ビカウ(ロシア語版)、1944年) 戦勝記念パレードに参加した赤クバーニ・コサック軍団 「ソ連邦大元帥」の軍服を着たスターリンの肖像 空軍元帥(セルゲイ・フジャコフ(英語版)、1944年) 熱帯地で使用されたパナマ帽 大祖国戦争当時の軍服を着用した退役軍人(2008年)
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