戦間期フランス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)
第一次世界大戦後の1919年のパリ講和会議ではイギリスはドイツとの経済関係や、フランスの対独復讐の肥大化が警戒され、過酷な講和条件を控えようとした。一方でフランスは対独復讐に基づく強硬姿勢を譲らず、6月28日にヴェルサイユ条約を締結させた。結局、フランスの対独復讐の多くは受け入れられず、受け入れられたのは巨額の賠償金とアルザス=ロレーヌの復帰のみであった。 1919年7月の総選挙では神聖連合の継続を求める層と左右両派の対立があり、結果はミルラン、ポワンカレ、ブリアンなどの領袖によって団結された中道派と保守派による連合である「国民ブロック」が勝利した。こうした勝利はクレマンソーの対独復讐や、ソビエト・ロシアの成立に伴うボリシェビキ政権の対ロシア債務の拒否による大衆投資家の反社会主義意識などが原因している。一方でそうした反ソ意識とは裏腹に、社会党やCGTといった社会主義系組織は党員を増大させた。 1920年1月に成立したミルラン政権では1904年以来、途絶していたバチカンとの外交関係が修復された。同年には国際連盟が成立し、常任理事国となった。またアルザス=ロレーヌをドイツから奪還したほか、旧ドイツ植民地、旧オスマン帝国領の一部を委任統治領として獲得した。シリアにはシリア・アラブ王国(英語版)が成立していたが、フランス・シリア戦争(英語版)で介入・占領し、フランス委任統治領シリアが成立している。 1922年1月、ミルランが大統領に就任したことを受け、ポワンカレが首相に就き、戦債の支払や国土の荒廃もあって経済的は不安定となり、ドイツからの賠償金を厳しく取り立てるようになり、1923年にはドイツに支払い能力やその意志がないことを理由にルール占領を強行したが、英米などの批判を受け、国際的な孤立とドイツに大混乱とインフレをもたらしたのみに終わった。以降、賠償金支払いプロセスにはアメリカが加わり、一定の安定を迎えた。 1924年5月の総選挙では国民ブロックによるルール占領のような強硬路線の失敗が祟って没落し、エドゥアール・エリオによる左翼連合が勝利し、ドイツの賠償金支払額を満額したドーズ案を受け入れた。また安全保障を国際連盟の枠内で保障したジュネーブ議定書もこの時、受け入れられた。 一方で、エリオ内閣では反教権主義的な政策が再開され、アルザスでの政教分離の導入や司教区信徒会の創設の拒否などが行われたが、ローマ教皇庁もキリスト教的民主主義を支持するなどの変化から、教会と共和国との関係は和解へと促進されていった。外交面ではルールからの撤兵のほか、ソビエト連邦との国交樹立などが行われた。またこの時期は、天然資源が豊富にあったアルザス=ロレーヌの復帰もあり、鉄鋼産業が飛躍的に発展し、1920年代末には世界第3位の生産量を誇るに至った。 こうした経済発展に恵まれたものの、エリオ内閣は資本課税の導入や財政危機への取り組みなどの金融政策で失敗し、1925年4月には上院の反対を受け退陣を余儀なくされた。しかし後継のパンルヴェやブリアン内閣ではインフレやフラン価値の下落に対して大胆な政策を打ち出せず、1926年7月には、再びポワンカレが首相に返り咲き、自らが蔵相を兼任し、増税や減債基金の設置などの政策を通して財政危機を乗り越えた。1928年の総選挙では財政危機の回復から、保守勢力が勝利を収め、翌1929年には、大量生産などの体制が確立され、工業分野の発展が最高潮に達した。 1929年10月に発生した世界恐慌は、2年後の1931年にフランスに到来し、1935年には最悪を迎える。また1930年代は、アクシオン・フランセーズやクロア・ド・フーなどの極右・ファシズム政党が誕生、活動を活発化させ、1933年末に発生したスタヴィスキー事件は、こうした極右政党の活発化をより刺激させ、これらは時の内閣であったカミーユ・ショータン内閣の崩壊を誘発し、後継のエドゥアール・ダラディエ内閣も組閣に難航した。2月6日にはクロワ・ド・フーによるデモが警察による発砲事件を呼び、死者15人、負傷者1500人を出す事件となった。この事件は2月6日事件と呼ばれ、事態の鎮圧に失敗したダラディエ内閣は、翌日総辞職した。ダラディエ内閣の崩壊を受け、成立したドゥメルグ内閣は「国民連合内閣」と呼ばれ、右翼主導による保守政権が誕生したが、執行権の強化をめぐる憲法改正が急進社会党によって拒否されると、政権運営がままならず、失脚した。 1936年の総選挙ではレオン・ブルム率いるフランス人民戦線が勝利し、左派政権が成立した。同年5月から6月にかけて発生した全国的なストライキはブルム内閣にマティニョン協定を結ばせ、秋にはフランの平価切り下げによって景気は回復したかに見えたが、翌1937年には、内閣の予想に反して、回復は減少し、6月には上院がブルムに財政政策の全権を与えることを拒否したことで、内閣は崩壊した。ブルム内閣時代ではドイツのラインラント進駐や、イタリアのエチオピア侵攻など、国際的な緊張が高まる事件が続き、1936年7月17日に発生したスペイン内戦では、フランスの不干渉を宣言したものの、これらは第一次世界大戦後に成立したベルギーやチェコスロバキア、ユーゴスラビアなどの小協商の離反を促した。
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