戦間期の改組問題
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1913年、インドシナ銀行の利益率は60%に達した。翌年からの第一次世界大戦当時、英仏日露がどの二国間も条約で結びついていた。バルカン半島と極東がドイツ帝国と利害の衝突する商圏であった。インドシナ銀行の舞台は極東である。ソシエテ・ジェネラル、もといロチルドは、露亜銀行をソ連に分断されるまでに、億単位のフランを日本へ貸し付け満州鉄道関連投資を促し4度の日露協約を実現させていた。4度目の協約がなった1916年の秋、植民地省は極東の公使・領事に特権更新の是非をめぐりアンケートを実施した。不満を示す回答が寄せられ、フランス商人よりも外国商人が恩恵にあずかっているとのことであった。1900年更新のときと異なり、外務省はコメントを控えた。ソ連が興った1917年春、インドシナ銀行に対する不満と批判がフランス下院を動かした。急進党議員パスカル・セカルディの意見を採用し、下院は5月20日に特権延長をデクレでなく法律で行うことを決議した。政府案をめぐる政争は泥沼化し、特権は有効期限をすぎても更新されなかった。 1920年代の植民地はおしなべて好況下にあったが、なかでもフランス植民地は、折からのフラン危機を回避すべく本国資本が殺到して空前のブームにわいた。パリバ、ユニオン・パリジェンヌ、そしてオクタヴ・オンベルグ・ジュニアが1920年につくったフランス植民地金融社SFFC(世界恐慌#証券パニックから世界恐慌へを参照)などが、フランス植民地の開発ブームを煽動し、またそこへ参加していた。1929年6月に植民地大臣のマジノが本国のインドシナ銀行資本参加を提案した際、オンベルグはインドシナ銀行の役員で唯一賛成した。オンベルグ一族はロスチャイルドの閨閥であったから、本国は都合のよいパートナーであった。 更新法は世界恐慌が本格化したころの1931年3月31日施行された。骨子は以下の通りである。1)新株式9万6千株を発行して資本金を7,200万フランから1億2千万フランに増額し、4万8千株は国家が取得する。2)役員定数を15名から20名にふやし、このうち6名を政府が選ぶ。役員会の議長は官選とされたが、総支配人は役員会で選ばれた。3)生産的流通残高と当座貸付高に応じた賦課金を植民地国庫へ毎年納付する。同じく植民地国庫に総額約3700万フランを貸上げる。4)(植民地の)農業信用組合手形を低利で割り引く。5)政府の要請を受けて、毎年2店を限度に合計20店まで出張所を設ける。
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