インドシナ銀行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/04 23:16 UTC 版)
インドシナ銀行(フランス語: Banque de l'Indochine、漢字名:東方滙理銀行(Đông phương hối lý ngân hàng))はフランスの植民地銀行である。インドシナ銀行は1875年に創設されて、1888年の大統領デクレにより極東植民地の全域を営業圏とした。母体であるパリ割引銀行が翌1889年に清算・改組されたのをきっかけに、雲南鉄道やジブチ・エチオピア鉄道などの利回りが高い事業を独占する事業銀行へ成長した。フランスの発券銀行で唯一、インドシナ銀行は利子付当座預金を受け入れた[1]。そこで累積したインドシナ国庫預金を輸出し、極東にフランス・ピアストル通貨圏を形成した。戦後は1974年スエズ金融に買収されてインドスエズとなり、やがてクレディ・アグリコルへ売却されて現在に至る。
- ^ 創設時は定款第15条第6項が三重に制限した。1)利子付預金の総額は払い込み資本金をこえない。2)利子率は割引率の半分を超えることができない。3)いかなる場合にも年率5%をこえることはできない。
- ^ AN, SOM, Crédit carton 57 : Note au sujet du privilège d’émission en Indochine, par Roume.
- ^ 日仏銀行は閉鎖機関のひとつ。日本興業銀行との人脈が深い。
- ^ 定款では証券発行と長期貸しを除くほとんど全ての銀行業務が認められていた。
- ^ パリ割引銀行は定款で引受が制限されていたので、専ら個人名義で応募した。
- ^ アラールは19世紀を通して1役員枠を占めた。
- ^ この間に創業経費のすべてを償却した。
- ^ 底値は払い込み資本金に対して23%、名目の自己資本に対しても13%であった。
- ^ 清朝借款の引受シ団は、この中国中央鉄道会社に1907年7月ドイツが加わり、1910年5月にアメリカもやってきて、1912年6月日露もあわせた6カ国の大所帯となった。
- ^ 1899年、1902年、1905年、1909年、1913年。インドシナ銀行のシ団が引受けた。インドシナ銀行は公共事業と関係する企業の株式・社債も引受けた。主要銘柄は概要に列挙した。インドシナ鉄道研究シンジケートからトンキン製糸会社まで。
- ^ 同年比較でパリバ35%、CNEP9.3%、クレディ・リヨネ16.6%、ソシエテ・ジェネラル10%。なお、クレディ・リヨネは1874年で54%、ソシエテ・ジェネラルは1867年で24%であった。推移はCLとSGがインドシナ銀行へいかに傾注したかを示している。
- ^ 広瀬隆 『赤い楯』 系図54 インドシナ戦争〜ベトナム戦争『地獄の黙示録』
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