1907年恐慌を尻目に
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「インドシナ銀行」の記事における「1907年恐慌を尻目に」の解説
利子付当座預金の受け入れは従来どおり可能とされたが、20世紀初頭はインドシナ国庫というヘビーユーザーが登場する。これについては、華南・華北・その他への出張所設置をみてから述べる。 華南をめぐっては、1901年3月11日のデクレで漢口・広東に出張所を設置することが認められ、翌年3月に開業した。雲南鉄道が通ってから、1913年7月11日のデクレで蒙自出張所が認可され、翌年1月2日に開業した。 華北をめぐっては、1906年1月21日のデクレで認可され、1907年に天津と北京へ支店を出した。1898年に露清銀行と協定したものを無視したのである。なぜならパリバが露清銀行の指導権を握れなかった。そして露清銀行支配人のロートシュタインが死ぬ1904年まで、フランスは露清銀行株式をパリ市場へ上場させなかった。露清銀行は1904年初頭に香港へ出店した。協定違反である。日露戦争後、露清銀行の活動が鈍っていた1905年10月のことであった。パリバ、CNEP、ソシエテ・ジェネラル、商工信用銀行、ユニオン・パリジェンヌ、フランス商工銀行(Banque Française pour le Commerce et de l’Industrie)が、インドシナ銀行を中心にシンジケートを組んで、香港上海銀行を中心とするシンジケート(British and Chinese Corporation, Pekin Syndicate, Yangtse Valley Company)と四川省の漢口-成都鉄道敷設権をめぐり協定し、中国中央鉄道会社(Chinese Central Railways Company, 華中鉄路公司)を創設した。インドシナ銀行が天津と北京へ支店を出したころ、1907年恐慌が起きて露清銀行は経営がゆきづまった。やがてソシエテ・ジェネラルの子会社と合併して露亜銀行となった。その役員に、ソシエテ・ジェネラル元頭取でオクタヴ・オンベルグの甥アンドレ・オンベルグを就けた。ロシア革命まで、ソシエテ・ジェネラルは露亜銀行を操縦できた。 なお、インドシナ銀行は華南・華北と前後して、バンコク・シャム・シンガポール・パペーテ・ジブチにも出張所を設けた。 さて、インドシナ国庫の利子付当座預金は1908年には2,000万ピアストルを超えて、銀行券総流通高を凌駕していた。1897-1898年の間インドシナ総督ポール・ドゥメールが財政を整え、その上で雲南鉄道等の大規模な公共事業が200家族に補助金つきで受注された。本国ではインドシナ公債が連発されて、インドシナ国庫は償還を迫られるようになった。この債務にあわせて預金残高が膨張したのである。預金は銀行券であったから、1900年8月以降は正貨準備率がしばしば100%を超えた。翌年10月19日に総督府が利上げを求めてきたので、インドシナ銀行は耐えかねて預金を鋳貨・地金で貸し出したいと切り出し、無事これを認められた。1902年春、上海出張所に150万ピアストル、広東と漢口の各出張所に100万ピアストルずつ、香港・バンコク・ポンディシェリの各出張所および支店に50万ずつ、計500万を輸出した。1911年春には正貨準備率が130%を記録し、再び総督府の許可を得て輸出に及んだ。このときの総額1000万は全てフランス・ピアストルであり、メキシコ・ピアストルを駆逐してもなお資金のだぶついていたことが分かる。1913年末までに総額1667万1000ピアストルを配ったのだから、中央銀行さながらである。
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