鉄道敷設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 21:23 UTC 版)
1891年(明治24年)に開業した初代門司駅(後の門司港駅=左)。現在、その付近には、「もじ」と書かれた駅名標と旧0哩(ゼロマイル)標のプレートがある。 福岡県会は、1882年(明治15年)には早くも「門司、熊本間鉄道布設に付建議」を決議し、県に予算を付けるよう求めている。福岡県知事安場保和は、1886年(明治19年)、国に門司から熊本県三角に至る「九州鉄道布設乃義上申」を提出し、国から民間企業による九州鉄道建設の許可を取り付けた。1888年(明治21年)、九州鉄道が設立され、まず博多・久留米間で着工したが、1891年(明治24年)、門司・高瀬(現玉名)間が開通し、門司駅(現門司港駅)や柳ヶ浦駅(後に大里駅、現門司駅)が開業した。九州鉄道の本社も博多から門司に移転した。 同じ頃、石炭産出地である筑豊では、1889年(明治22年)に筑豊興業鉄道が設立されて1891年(明治24年)に若松・直方間で開通、1893年(明治26年)に折尾経由で門司港への石炭輸送が可能となった。同社(筑豊鉄道と改称)は、1897年(明治30年)、九州鉄道と合併した。また、豊前地方で1893年(明治26年)に設立された豊州鉄道は、伊田・行橋間、伊田・後藤寺間を開通させ、1901年(明治34年)に九州鉄道と合併した。なお、九州鉄道は1907年(明治40年)に鉄道国有法により国有化され、門司に九州帝国鉄道管理局が置かれた。 従来、筑豊の石炭輸送は、遠賀川の舟運(平田舟)に頼っていたが、鉄道により九州各地に送るとともに、門司・若松の輸出港に直送できるようになった。このうち、若松港は水深の浅い洞海湾に面し、大型船が寄港できなかったのに対し、門司港は、水深が比較的深く、本州との接点にあり、国内外の物流に適しているという優位があった。門司の開港当初の輸出品は少量の石炭と塩くらいであったが、鉄道開通により筑豊の石炭の輸出港として大きく発展した。1890年(明治23年)の輸出額は34万円余りであったが、1901年(明治34年)の輸出入額は1885万円余りにまで成長した。また、当時は船の燃料に石炭が使用されていたことから、汽船への焚料炭(バンカー)の供給基地でもあった。 なお、当時、鉄道は下関とつながっておらず、1889年(明治22年)に門司の石田平吉が渡船業を始め、1896年(明治29年)に下関側で関門汽船が設立され、業者が乱立した。1901年(明治34年)に山陽鉄道が馬関(現下関駅)まで開通すると、山陽汽船商社が関門鉄道連絡船を運行した。1911年(明治44年)には、日本最初の貨車航送として、小森江の笠松町と下関の竹崎を結ぶ関森航路が開かれた。また、1892年(明治25年)の大阪商船による尾道・門司航路を皮切りに、数多くの国内・海外の定期航路が就航した。
※この「鉄道敷設」の解説は、「門司の歴史」の解説の一部です。
「鉄道敷設」を含む「門司の歴史」の記事については、「門司の歴史」の概要を参照ください。
鉄道敷設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 16:12 UTC 版)
1889年(明治22年)に斜坑を開さくして水準面以下を採掘し始め、蒸気捲揚機・気罐排水ポンプなど最新機械を導入し、さらに1894年(明治27年)に内郷炭鉱を買収すると、出炭量が急増した。1889年(明治22年)に福島県菊多・磐前・磐城郡長白井遠平は石炭輸送改善と地域開発のために磐城から東京への鉄道敷設を計画し、浅野総一郎・渋沢栄一・川崎八右衛門(東京川崎財閥)が賛同し、福島県知事山田信道も加わって常磐鉄道創立を目指したが、不景気で資金不足になるという理由で鉄道局長官井上勝が反対して中止された。1893年(明治26年)に景気が回復すると、白井は日本鉄道会社も加えて常磐鉄道創立を目指したが、日本鉄道会社が支線として敷設することになり、日本鉄道・通運会社・川崎八右衛門(入山採炭を設立)が50万円ずつ、渋沢と浅野が25万円ずつ合計200万円出資した。1896年(明治29年)日本鉄道磐城線(JR常磐線)が平まで開通すると、磐城炭鉱は湯本駅まで専用鉄道を敷いて、石炭を炭鉱から東京まで鉄道で輸送して、輸送費を削減した。
※この「鉄道敷設」の解説は、「磐城炭鉱」の解説の一部です。
「鉄道敷設」を含む「磐城炭鉱」の記事については、「磐城炭鉱」の概要を参照ください。
「鉄道敷設」の例文・使い方・用例・文例
- 鉄道敷設のページへのリンク