鉄道敷設申請、たび重なるルート変更
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 07:16 UTC 版)
「五日市鉄道」の記事における「鉄道敷設申請、たび重なるルート変更」の解説
地元有志による秋川流域の電気事業計画は1916年(大正5年)に秋川水力電気株式会社を設立して、12月に送電が開始された。五日市町長岸忠左衛門と増戸村の山林資産家の小机三造が会社設立の推進役となり、織物買継商で五日市銀行頭取の土屋常七の積極的な出資によるものであった。電気事業は順調で予想を上回る申し込みがあり毎年増配を続けていた。 1919年(大正8年)4月に土屋常七の娘婿であり秋川水力電気社長の紅林七五郎ほかにより軽便鉄道敷設願を提出した。発起人15人のうち10人は立川-五日市間の沿線居住者で資産家層であった。そのときのルートは中央本線立川信号所より分岐する専用鉄道(多摩川砂利木材鉄道)拝島終点埼玉街道付近を起点として北多摩郡拝島村、西多摩郡熊川村、東秋留村、西秋留村、増戸村を経て五日市町までと増戸村坂下から分岐して大久野村地内勝峰石灰山に至る路線であった。そして起点から多摩川砂利木材鉄道専用線、中央本線貨物支線を介して中央本線に乗り入れて立川駅に連絡することを希望していた。しかし鉄道院は実地調査した結果このルートに異議を唱え、青梅鉄道拝島駅に起点を変更するよう求めた。その理由として最寄り駅である拝島駅にすれば建設費が軽減できること、青梅鉄道は余力があり輸送力は問題ないことをあげた。それに対し1920年(大正9年)3月に五日市鉄道が出した起点変更願いでは起点を立川駅に変更して青梅鉄道の南方を通るルートをあげており青梅鉄道を利用しないことに固執していた。しかし結局同年8月には鉄道院の指示通り起点を拝島駅に変更し、1921年(大正10年)7月に鉄道免許状が下付された。
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